独自の神話体系をもつ新宗教 中興の祖の役割 神示の種類 日月神示と天杖
伊都能売神の謎 人類の大峠について 埋没神伊都能売≠フ神話 五井昌久と千鳥会
天杖神示と関東大震災 岡田茂吉とフーチ

ここでは、新宗教とそれに伴う「神示」についての資料を掲載します。


独自の神話体系をもつ新宗教

教派神道の「教祖」たちが書いたものを性格的に分析すると、

@純然たるお筆先
A半ばお筆先
Bお筆先にみせかけているが実際は頭脳だけで書いたもの
C家伝を中心にまとめたもの
D信者からの質問に応えたもの
E埋もれた資料をひそかに解説したもの

などあげることができるだろう。

まず@には天理教の中山みき、大本教の出口ナオ、「道ひらき」の荒深道斉、ひかり教会の岡本天明などが入るだろう。

中山みきに懸かった親神・天理王命は、『泥海古記』などから判断すると、この世の元初がどろ海だった頃、人間の陽気ぐらしをみたいと考えて、どろ海のどじょを食べ、それによって人間のたねをつくり、人間の<進化>をみとどけてきた「元の神・実の神」である。すなわち、宇宙剖判の神業に参加し、人類を創生したあとは次第に埋没してしまった神である。それゆえに、再び世に出たときは、人類の「陽気ぐらし」に反する「高山」勢力には抵抗を示したのである。

一方、出口ナオに懸かった「艮ノ金神」も「この世を始めた神なれど、余り我が強うて丑寅へ三千年と五十年押し込められて居り・・・・」というように埋没した神であった。そして、この神は「金神」の名が示すように、金光教の「金神」と同じく、陰陽道系の暦神の一つとして、庶民に恐れられてきたのである。だが、それは「悪」神の悪だくみによって、そう思わされてきたのである。当然、裏には善神・悪神による神界戦争が想定されているわけだ。つまり、ここから大本独特の<国祖引退>神話が登場してくる。

すなわち、天理教や大本教は、記紀神話とは違う独自の神話体系を有しているのだ。とくに大本のは、超古代史文献との共通性が多いのである。

二人の女性教祖のばあい、埋没神ではあるものの、人類創生の神業を行ってきた当事者の神である。こりに対して荒深道斉のは、「当事者」からの霊示という点では共通点はあるが、やや趣を異にしている。すなわち、彼のばあい、「東征」の総参謀役として神武天皇に仕えた道臣命の霊示をうけたことで、大正から昭和にかけての神道界に新風を吹き込んだように、たえず皇祖神たちと行動を共にしてきた古代霊からの「通信」である。そのため、一見「皇国史観」によって書かれたようにみえるが、失われた「記紀」以前の記録が、非常に霊格の高い当事者によって明らかにされている点、実に貴重な内容になったいる。神代文字も含めて、その意味で、荒深道斉の自動書記は、やはり超古代史文献との共通の空間をもっているのだ。

国学的教養をもった霊界探訪型の霊能者たち

これにたいし、岡本天明に懸かった「ひつくのかみ」は、傍観者的な視点で通信してきた。その「お筆先」の特徴は、神示のほとんどが漢数字で書かれている点だ。そのため、書いた当人ですら、すぐには解読できず、筆記者の潜在意識が入ってくる要素が少ないという点で、「文盲」状態の出口ナオが「ひらがな」で書いた「お筆先」とともに高い評価を得ている。太平洋戦争をはさんで自動書記されたためか、その内容には戦争のいく末についての記述が多いが、その中に含まれた神界情報には、超古代からこの神がみてきたものがあり、実に内容が富んでいる。つまり天明の神は最高次元の埋没神の祐筆だったようだ。

ところで、Aには、宮地神仙道の宮地水位(1852〜1904)、禊流の川面凡児、大本教の出口王仁三郎(1871〜1984)などが入る。いうなれば、国学的教養を身に付けた。霊界型探訪の霊能者たちである。そして、三人に共通している点は、いずれも故郷の霊山で修行によって霊的能力を獲得していることである。

すなわち、宮地水位は四国の手箱山から石槌山にかけて、川面凡児は宇佐八幡の神奈備山である馬城峰で、出口王仁三郎は高熊山で、若い頃、霊的体験をし、霊人に誘われ霊界を探訪しているのである。そして、そこでの見聞をもとに、自分の国学的教養を加味して、それぞれの霊学体系を樹ち立てているのである。

しかも、三人とも神道秘教史にかんする収集家でもあるのだ。宮地水位のばあいは土佐の藩校から放出された神道・国学文書、川面凡児は祖父伝来の古文書、出口王仁三郎のばあい、自分の力で集めたり、彼の霊的磁力に引きつけられた信者がもってきた古文書を研究している。その中には、いわゆる超古代史文献なども含まれていたのである。さらに、彼らは『古事記』や『日本書紀』や『古語拾遺』や『先代旧事本紀』などを読むとき、その行間にある<目に見えない部分>を読み取ることができる霊眼をもっていたのである。それは「お筆先」を自動書記させた神々とまったく同じか、あるいは同じ神族に属している神々のハタラキによるものなのだ。つまり、彼らも、いままで沈黙してきた神々の声を聴くことができたわけである。

ちなみに、梅辻規清や、竹内巨麿も、こうしたタイプに入るだろう。

幕末から明治にかけて、それまで地下に押し込められていた埋没神が次々と復活してきたが、同時にそれまで古社の奥深い所にしまわれてきた古文献や、超古代の神々の実績をひそかに語りついできた「語部」の家の伝承が吹き出してきたのである。その意味で、教派神道の教祖たちの「お筆先」や、いわゆる「超古代史文献」は同じ位相に立っているのである。それらの中に出てくる神々は、たとえば国常立尊のように、「記紀」と同じ神名をもっていても、新しい役割と言うよりもむしろ、本来の役割をもって登場してくるのである。

「古神道の系譜」菅田正昭 著


中興の祖の役割

浄土真宗にしても日蓮宗にしても、親鸞や日蓮が在世している時代では信者の数はせいぜい数百人というところでしょう。今でいえばミニ・カルトですね。そういう教団が、後に大きなパワーを持つことにより、しだいに信者の数を増やしていきます。そうなっていきますと、逆に、教祖が生きていた時代の共同幻想の共同謀議の世界はどんどん衰えていき、神話作用として動く力が弱っていきます。そこで、中興の祖、浄土真宗でいえば蓮如のような、とんでもない男が出てきて、また違った展開が行われます。いつ中興の祖が出てくるかによって、教団の位置づけもまた変わっていきます。
中興の祖が、その教団の伝統的な部分に発生すれば、教団の新たな発展という形になりますが、たまたま、ちょっとはずれたところから出てきますと、「これは異端者だ」ということになり、しょうがないから飛び出して新しい教団を創ることになります。そういう意味では、中興の祖も開祖と全く同質の存在・・・教祖といえるのではないかと思います。
ですから、宗教団体について、新宗教だとか、旧宗教だ、既成宗教だ、などと位置づけること自体が、だいたいおかしなことだというべきです。したがって、たとえば大本から世界救世教へ、世界救世教から真光へ、という流れなども、そうした観点から見ていかなけれはならないと思います。大本は古いからだめで、その後登場してきた教団のほうが将来性があるとは必ずしも言えないわけで、再び大本からすごいパワーが出てくるかもしれません。
今ではもうダメになってしまった教団と思えるものでも、中興の祖しだいでは、新たなパワーをもって発生してくるかもしれません。それが伝統的、正統部分で発生するか、正統部分から見ると異端の部分に発生するかで、教団そのものの発展と新たな教団の発生とに分かれるからです。

「古神道の系譜」菅田正昭 著


神示の種類

砂庭神示  
砂を入れた木箱を中心に置き、神伝人が砂庭天杖の一方を握り、神仕人がもう一方を支える形で砂の上に神霊からのお伝えを文字や図形で描きます。ちなみに「真の道」教団では大祭と節位の時だけに行われる最高位に位置する神示の形態です。

天杖神示
神伝人と副杖が、杖の両端をそれぞれが向き合って握り、半紙の上に墨字を描きます。フーチとも呼ばれています。この時に審神者がついて神霊を判断したりします。

自動書記
教祖や霊能者が普通にペン等を持ち、奉書(巻紙)の上 に自分の意志とは無関係に文字や絵を描きます。 神示のほか、霊示にもこの方法が使われます。 この方法が最も多く、大本の出口ナオや日月神示はこの方法で書かれています。ただ、一方的な神示のために審神者の判断なく、信頼性が薄い場合などがあるので要注意です。

その他の神示
この他に、物理霊媒(霊能者)を使っての神示があります。昭和初期には交霊会にが頻繁に開催されました。 交霊会では、物理霊媒がキャビネットに入り、トランス状態になって多量のエクトプラズムを出して、暗くした部屋の中でメガホンを浮き上がらせ、エクトプラズムで声帯を作って声を出したり、写真のネガに念写したり、蓋をしたコップの中に地中海の真珠を引き寄せたり、人形を念力で踊らせたりしました。
ただ、このようにエクトプラズムを仕える物理霊媒は現在は日本には、残念ながら存在しません。従って交霊会などの心霊研究を行っている宗教団体はないようです。

ちなみに日本に存在した物理霊媒は、津田江山氏、亀井三郎氏、萩原真氏(真の道・初代教え主)、竹内満朋氏などが有名でしたが、すべて故人です。

この四人の物理霊媒は日本の心霊研究や宗教家に大きな影響を与えました。
特に、萩原真氏の千鳥會(真の道の前身)には多くの宗教家が参加をしていました。


日月神示と天杖(フーチ)

東京の原宿に日本の古代史を研究するグループ、修史協翼会があった。

そこで、昭和19年4月18日「フーチ」の実験会が行われた。

フーチとは、10センチほどの厚さに砂を敷いた砂盤の上に、T字型のチボクをわたし、両端を二人の霊媒がもち、御神霊の降霊を賜って砂の上に文字を描き出すという、自動書記現象のことである。

中国では古くからフーチによって御神意をうかがう方法がとられていたようで、シャーマンを表す巫女「巫(かむなぎ)」という字は、この神秘的な行動をかたどってできたものだという。

このフーチ実験会には、太陽工業社長の高井是空氏、陸軍少将の小川喜一氏ら十数名が集まった。

審神者兼司会の役をつとめたのは、当時、千駄ヶ谷の八幡神社で留守神主をしていた岡本天明である。

参加者はいずれる科学陣営の人々で、心霊現象やカミガカリなどといったたぐいなものは、まったく信じていなかった。天明がこの霊現象の実験会で、フーチの形式を取ったのは、実験参加者自身に霊媒役になってもらい、疑う余地を少なくしたいと思ったためである。

審神者というのは読んで字の如く、神の審定する者という意味である。

こうした降霊実験などでは、どのようなレベルの神霊が感応して来るかわからない。動物霊などの低級霊による感応の場合も多く、正しい神霊とよこしまな霊とを見分ける役が必要となる。

そして神霊と言葉を交わし、御神意をうかがわなければならない。当然、審神者には豊富な霊的体験と幅広い知識、的確な判断力が要求される。

この実験で最初にチボクを持つ霊媒役となった二人は、前出の高井氏と、某婦人であった。

実験開始数分後、感応があり、T字型チボクがゆっくりと砂の上に線を書き出した。

まず、大きな字で「天」と記された。

そして次に「ひ」。
さらに「つ」「く」という文字が、砂盤の上に描かれた。

「御神名だろうか・・・・・?」

そう思った天明が、そのようにたずねてみたが、それに対する返事はなかった。

次に前出の小川少将とある人が霊媒役となって試みたところ、今度は「日月の神」と記された。つづいて何組かが実験したが、いずれも「ひつきの神」とか「天之日月神」と示されるのみで、他の質問には返答がなかった。

しかし、実験に参加した人たちは異常な興味を持った様子であった。「天之日月神」などという御神名は聞いたことがない。

神名辞典などを手当たり次第に調べてが、載っていない。

結局、その日はそのままウヤムヤになってしまったが、数日後、参加者の一人から天明に連絡があり、平凡社発行の百科事典に、「天之日津久神社」があることを発見したのである。

日月神示 中矢伸一 徳間書店

このように、日月神示のきっかけも天杖(フーチ)であったわけです。


伊都能売神の謎

千数百年後に甦り救世主に祀られた神の不思議

『古事記』以来不明となった埋没神

伊豆能賣神は一種の埋没神である。というよりも完全なる埋没神である。ところで、ふつう「埋没神」というと菊理媛が有名だ。故・金井南龍師が『神々の黙示録』の中で、埋没神の典型として、この菊理媛を取り上げたことから、この神は埋没どころか急浮上してしまった。

話はそれるが、この菊理媛はイザナギ・イザナミの御子だが、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の「一書」の中にたった一カ所だけ出てくる。すなわち、イザナギが最愛の亡き妻イザナミを追い求めて死者の世界である黄泉国へ行き、その他ですったもんだの夫婦ゲンカのすえついに<離婚>をしたとき、菊理媛はイザナギの耳もとで何かを囁いて誉められている。その部分を『日本書紀』から引用すると、「是の時に菊理媛神亦白す言有り。伊弉諾尊聞しめして、善めたまひて、乃ち散去ましぬ」である。つまり、菊理媛は何を囁いたのか、まったく伝わっていないのだ。

いうなれば、菊理媛は『日本書紀』の「一書」にしか取り上げられておらず、しかもその事蹟がほとんど不詳という点で<埋没神>だというわけである。しかし、この菊理媛を祭神とする白山比盗_社・白山神社は、全国に二千七百カ所以上は鎮座しているのである。

ところが、伊豆能賣神のほうは、『古事記』にただ一カ所、神名が見えるだけで、何をしたのか、という事蹟については菊理媛以上にまったく埋没しているのである。すなわち、『古事記』と伊豆能賣神と一緒に出生した他の十柱の神々が『日本書紀』本文にも登場してくるのに、伊豆能賣神の神名だけが見えないのである。

ところで、今はひとことで<記紀>と言ったりするが、明治になるまでは『古事記』と『日本書紀』とでは、神道家や国学者たちは『日本書紀』のほうを重視していたから、『古事記』にあっても『日本書紀』のどこを捜しても載っていないということは、こちらのほうが埋没の度合いがより深かったといえよう。その意味では、『日本書紀』はイヅノメをまったく無視しているのである。しかも、伊豆能賣神を祀っていたと想定できる神社が、古代の出雲地方にたった一カ所あったのに、それも早い時期に埋没してしまい、今はまったく行方不明になってしまっている、という点では菊理媛の比ではないのである。

イヅノメの特徴と伊豆能賣神社

イヅノメ神は、『古事記』の「身禊」の段にに出てくる。すなわち、イザナギが黄泉国から帰ってきて、その穢れた身体を「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓されたとき、汚垢の禍を直そうとして出現している。ここで、その前後の箇所を正確に引用すると−−

「ここに詔りたまわく、『上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し』と詔りたまひて、初めて中つ瀬に堕り潜きて、滌ぎたまふ時に、成りませる神の名は、八十禍津日の神、次に大禍津日の神。この二神は、かの穢き繁き国に到りたまひし時の、汚垢によりて成ませる神なり。次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直?の神。次に大直?の神。次に伊都能売。次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神。次に底筒の男の命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の神。次に上筒の男の命。・・・・」

ふつう、この箇所は、福岡県志賀島の志賀海神社の祭神であるアヅミ(安曇)系統の底・中・上のワタツミ三神と、大阪の住吉大社の祭神である津守=スミヨシ系の底・中・上のツツノヲ三神という、海神六神の出生譚として知られている。だが、ここでは、イヅノメの特徴を見ておくために、このとき一緒に出現された十一柱の神々の関係について整理をしておこう。すなわち、「上流は瀬が速い、下流のほうは瀬が弱い」と仰せになって、真ん中の瀬に降りて水中で身体を洗ったとき出現された神々について、である。

@八十禍津日神・大禍津日神・・・・・あのきたない国へ行った時の汚垢によって出現された神
A神直毘神・大直毘神・・・・・@の禍を直そうとして出現された神
B底津綿津見神・底筒之男命・・・・・水底で洗ったときに出現された神
C中津綿津見神・中筒之男命・・・・・水の中で洗ったときに出現された神
D上津綿津見神・上筒之男命・・・・・水の上で洗ったときに出現された神

まず、ここで注目しなければならないのは、イヅノメを除くと、十神はいずれも神名に共通する部分をもち<対>の関係で出現してくることである。ところがイヅノメだけはいちおう第二グループに入っているものの、他の十神とは共通する部分がないのである。しかも、イヅノメだけには「神」も「命」もついていないのである。すなわち、どうみても、イヅノメだけが仲間外れみたいになっているのである。

『古事記』の研究をライフワークとした国学者の本居宣長は『古事記伝』の中で「伊豆能賣ノ神。今ノ本は何れにも神ノ字無し。こは延佳が補ヒたるぞよき。凡て此ノ前にも後にも、生ませる神てふ神に、神といはぬ例なければなり。〔弥都波能賣なども、書記には神とまなけれど、此記には神とあり。〕」と延べている。

イヅノメに「神」の字がないのはたんなる偶然か、それとも意図的なものかどうかについては、ほんとうのところはわからないけれど、しかし、このことによって、おそらくイヅノメは『日本書紀』の編集者から忘れられてしまったのである。イザナギの<身禊>の故事を祝詞化した、いわゆる禊祓詞はこれからの十神を「祓戸大神」と総称しているが、イヅノメはここからも疎外されている。だが、それゆえにイヅノメは、これらの十神と、そのあとイザナギが左目を洗ったときに生まれた天照大神、さらに右目を洗ったときに生まれた月読命、そして鼻を洗ったときに生まれた建速須佐之男命の、いわゆる<三貴子>を加えた神々の、すべての神格を統合した存在であった、という推測も成立するのである。

ちなみに伯家流の禊祓詞は、祓戸の十神の一つひとつの神名を唱える形になっているが、この禊祓詞を使っている神道系の霊能者たちの中には、秘伝・奥伝として、この「イヅノメノカミ」の言霊を加えて唱えたりしているのである。すなわち、この七音から成る言霊は、大祓詞の、埋没してしまった秘詞である「天津祝詞太祝詞」のような扱いをうけているのである。

このイヅノメを祀っていたと思われる神社が『延喜式』神名帳に載っている。すなわち、出雲国「出雲郡五十八座」の中の一社である「同社神魂伊豆乃賣神社」である。そして、このイヅノメ神社が埋没してしまったのである。
ところで、この「神魂」の訓みだが、大倉精神文化研究所刊行『神典』所収の『延喜式』は「かむたま」、本居宣長は「かみむすび」と訓ませているが、ぼくは「かみのみたま」のほうが良いと思う。また、ここに出てくる「同社」だが、このイヅノメ神社の前に記載されている式内社「伊努神社」と<同じ社>の義だと考えられる。すなわち、<伊努(郷)に坐す神の社の神のみたまを祀ったイヅノメの神の社>の義である。

なお、出雲国出雲郡の伊努神社も事実上は埋没しており、現在は島根県簸川郡大社町遙堪に鎮座する同じく式内の阿須伎神社に合祀されているので、イヅノメ神社もそこに含まれていると考えられることもできる。しかし、厳密に言えば、伊豆能賣神を祀った神社はどこにもないのである。

ちなみに、『延喜式』の出雲国出雲郡の五十八座の式内官社のうち、「同社<何々>神社」の表記があるのが二十六座もある。また、『出雲国風土記』の「出雲郡」には、式内社と同じ「神祇官にあり」の神社が五十八所記載されているが、そのうち「同じ社」が十六所、「同じ<何々>の社」が一カ所ある。さらに「神祇官にあらず」の古代の民社六十四所のうち、「同じ社」三十九所、「同じ<何々>の社」が六所を数えている。これらの「同じ社」がどういう状態を意味しているのか、紙面の都合でここでは述べることはできないが、筆者は一つの確たる説を持っている。

岡田茂吉の伊都能売=観世音菩薩説

埋没した神とか、隠れてしまった神には魅力がある。神名も判らないカミの場合だと手懸かりがないが、イヅノメのように「神」も「命」も付いていない神の場合、限りなく想像のロマンが湧いてくる。しかも、日本人には「判官贔屓」の国民性がある。古史古伝系の伊豆能賣天皇の「伝統」とも相まって、イヅノメ神は埋没神であるがゆえに甦ってくる可能性があったのである。

そうした中で、昭和6年6月15日、観音の啓示をうけて以来、救世のための独自の神霊治療を始め、昭和22年、静岡県熱海市で日本観音教団を開教した岡田茂吉のイヅノメ神観は、日本の神の本地がインドの仏であったという、従来の本地垂迹説を真っ逆さまに引っ繰り返した神観を提示する画期的なものだった。すなわち、岡田茂吉はここで、観世音菩薩はもとは伊都能賣神であった、ということを霊示によって明らかにするのである。

彼によれば、昭和6年、霊界が夜昼転換の、すなわち物主から霊主の「仏滅」の時代へ入った。それにともない、夜の月光の働きをしていた観世音菩薩の働きも変わり、従来の化身仏から御本体の伊都能売神の御働きとしての救世主のそれとなった。ちなみに「観世音菩薩=光明如来=、メシア、弥勒神等も、御名は異なれど同一の御神霊」である。そして、岡田茂吉は伊都能売神の来歴を、つぎのように語るのである。

「初め素戔鳴尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲であった。ところが当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇で、この神皇は余程古代からの日本の真の主権者であったらしい」

このスサノヲはとても好戦的で、平和主義者のイヅノメ神皇はひそかに某国へ亡命したという。そのあとを継承された天照天皇とその皇后が国を統治したが、間もなくして天皇が崩御された。するとスサノヲはますます好戦的となり、やむなく天照皇后は近江の琵琶湖を境に、西をスサノヲに与え、東を皇后が領有することになったという。

「日本古来の神々はインドへ渡航し、化身仏となられたのである。その化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本における最高の地位であられたのである。ところがその頃素戔鳴尊を中心とする挑戦の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って要望したが、容易に応諸されない為、威圧や迫害から進んで遂に生命にまで及んできたので、急遽御位を棄てられ、変身によって眼を外らし、密かに日本を脱出し、支那を通って印度に落ち延び給うたのである。そうして観自在菩薩の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀落迦という名の、余り高からざる山の上に安住せらるべく新たな清き館を建てられたのである」

この観音の説教を弟子の一人として聴聞したのが当時、善財童子と喚ばれていた悉達太子、すなわち若き日の釈尊であった。だから「実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである」

なお、岡田茂吉は昭和10年の『観音講座』の中では、伊都能売大神様は金龍となられて、近江の琵琶湖にお潜みになられた、とも述べている。

<イヅ>の地名に興ったイヅノメ系教団

ところで、本居宣長は『古事記伝』の中で、イヅノメの「伊豆」とは、「明く清まりたる意にて、明津の約りたる言なり。〔阿伎は伊と約る〕」と指摘し、速秋津日子日女の二柱はこの神である、と書いている。さらに、大祓詞の瀬織津比唐ヘ禍津日に、気吹戸主は直毘の神に、伊都能売神は速開都唐ノ該当すると述べている。そして「厳」という感じの付く語を並べながら、「斎清浄つる意」を「伊豆」というと結論している。

しかし、「伊豆」の語源が「斎く」だとすると「厳」よりも「付く・憑く」のほうに語感が移ってしまうように、ぼくには思えるのだ。そこで、ここでは「出づ」、すなわち神が「出現」する義と考えたほうが良いのではないかと思う。
それというのも、出雲国出雲郡に鎮座していたイヅノメ神社が埋没してしまったように、さらに出雲国の最高神であった国つ神の大国主神が幽冥界を司る神であるように、出雲地方というのは、どちらかというと<死>を暗示するイメージ強いからである。超古代には神々が出現した<イヅ>の地であったにもかかわらず<国譲り>を契機として、その後は<喪>に服してしまった状態になっていたのである。

これに対して、<伊豆>国のほうは、岡田茂吉が指摘する伊都能売神と事蹟がとてもよく似ている、出雲国の事代主神が三嶋大明神として再臨した地方である。

その事代主神の本源の地である伊豆諸島の三宅島には「伊豆」という小さな地名があるが、そこは、古代の火口で、文字どおり火が吹き出した所、その意味では、イヅノメの鎮まり坐す場所としては、同じ<イヅ>の言霊をもった<出雲>のイヅ<喪>より、もう一つのイヅである<伊豆>のほうがふさわしいようにみえる。

実際、岡田茂吉の世界救世教の本部は、伊豆国である静岡県熱海市にある。また、「天の下造らしし伊都能売大国魂大国主之大神に畏み畏みも白さく」と祈言で唱えている岡田光玉ゆかりの崇教真光の「陽霊元み魂座」は同じく熱海市に、また同じ真光のもう一つの教団である世界真光文明教団の本部とス座は中伊豆町にある。そしてさらに、伊豆という地名とは直接関係ないようにみえる三重県津市の救世神教も、伊勢国の津にあるという点では、まさにイヅの地にあるのである。いうなれば、イヅノメが仕組んだ経綸の霊的磁場に引かれるようにして、これらのイヅノメ系教団は存在しているわけである。

岡田茂吉に発した世界救世教、その分派教団である世界明主教・救世主教・救世真教・救世神教・神慈秀明会・救いの光・五六七大栄会・・・・さらに世界真光文明教団や崇教真光などの真光系教団は、なんらかのかたちで伊都能売神を祭っている。その所属教会、道場、布教所・・・等々を含めると、かなりの箇所になるはずだ。同じく埋没神の菊理媛を祀った白山神社の二千七百以上という数字には及ばないかもしれないが、信者の家に祀られたものまで含めると、その数は菊理媛をかるく凌駕しているかもしれないのだ。

注・このホームページ公開後に神慈秀明会・現役信者の方からのご指摘があり、神慈秀明会では伊都能売神は祭っていないことがわかりましたが、添付した菅田氏の著書通りに掲載致します。

岡田茂吉によれば、伊都能売神の神格は中庸≠ナある。その『古事記』の伊豆能賣からも引き出せるが、現代という時代は、まさに、その精神が求められている時代である。その意味では、これからも伊都能売神の動向と、イヅの言葉を地名に有している地方に注目していかなければならないだろう。

「古神道とエコロジー」 菅田正昭 著


人類の大峠について

大本系の教団では、「大峠」がきて、人類と世界の立て直しが起こると言われています。
いくつかの事例をあげてみました。


大本 出口王仁三郎師の場合

晩年、食事を食べずにじっとしている王仁三郎の姿に、付き人の三浦玖仁子が心配そうに尋ねた。

「聖師(王仁三郎)さま、どないしたんです」

付き人の顔を見た王仁三郎は次のように呟く。

「いまわしは、前に神様から見せられた大峠という最後の立替えの場面を思い出したんや」

「・・・・・・」

「そやったら、メシもろくに喉を通らん。いいか、どない光景かわかるか。死体が累々続くんや。その死体を踏み越えてなあ。人が青い顔して、吐息をつきながら、生き残った人にあんさんも生きておりましたかと呟くんや」

この話から王仁三郎が時間という次元を越え、未来の光景を見ていたことを知ることができる。

「裏金神」西郷武士 著



世界救世教 岡田茂吉師の場合

すべての巡教が終わったあと、四月一九日のことである。突然、脳溢血の症状を起こし茂吉は倒れた。その浄化がおきて五日後のこと、床に臥してしていたがにわかに目を開き滂沱と涙を流し嗚咽さえあげたのであった。付き添いの者が容態を気づかうと、こう返答したのであった。

『今、大峠の様を見せられた。それは私の想像したよりも実にひどかったので、非常に悲しい思いがしている。結局、人類が亡びることを一番悲しむのは誰でもない、神だよ』

「明烏阿呆伝」 中島多加仁 著


埋没神伊都能売≠フ神話

ここで、観世音菩薩の本体というものを説示せねばなるまい。茂吉の説を紐解きながら進めてみたいのだが、あまりにも一般常識とかけ離れすぎている分野であるので、心を潜めて読んでもらいたい。

元来、仏身なるもの根本は何であるか。単に仏と言っても実は二通りあって、本来の仏神と神の化身と両方あるというのだ。そして本来仏とは約二六〇〇年前、釈尊のときから生まれたものであって、そのころインドは月氏国とも呼ばれていたらしい。同国においてはよほど以前から婆羅門教は、教義のようなものはなく、ただ肉体的難行苦行によって宇宙の真理を掴もうとしたものであった。

達磨大師にしても、面壁九年という長い年月、坐禅のまま壁に向かって瞑想を続けていたのであるから、その苦行は並大抵ではあるまい。ところがそのころ突如として現れたのが、釈迦牟尼如来であった。皇太子であったゴータマ・シッダルタが、修行を終えて大覚者となり出山したのである。太子は幽現界の真相を会得し、燃ゆるが如き大慈悲心をもって一切衆生を済度せんとする本願を立てた。

その手段として、まず天下に開示されたのが「経文を読むことによって覚りを得る」という方法だった。これを大衆に向かって大いに説論したのだから、当時の社会に一大センセーションを巻き起こした。

なにしろ婆羅門式難行苦行を唯一無二のものとしていたころだったので、喜んだのも無理はない。これに代わるべきものとしての読経という容易な修行であるから、大衆は釈尊の徳を慕い、ついに釈尊をインドの救世主の如く信奉の的となったのは当然の成りゆきであろう。そのようなわけで、ついにインド全体を仏法化してしまった。

ここで驚くことを書いてみたい。それは、その当時の日本古来の神々のことである。茂吉の説でみると、日本の神々はインドへ渡航し化身仏となられた、というのだ。

(中略)

さて当時、日本における神の総領は誰であったか。それは伊都能売≠ニいう名の神で、そのころの最高の地位であられたというのだ。古事記をご存じの読者のなかにはお気づきの方もいると思う。この伊都能売という神、あの古事記には単に名詞だけが登場してくるのみで、神としての働きや性質がいっさい明記されていないのだ。つまり、埋没神とされてきたのであるが、これには非常に意味があった。この文を読まれて、各自でその意味を考えてもらいたいのである。

話を本題に戻そう。ちょうどそのころ素戔鳴尊を中心とした朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って要望した。しかし容易に応諾されないため、威圧や迫害等からついに生命にまで及んできたので急遽、位を棄て、変身によって眼を外らし、密かに日本を脱出し中国を通ってインドに落ち延びたというのである。

その後は、観自在菩薩という名に変じ、インドの南方海岸にある補陀落迦という名の山の上に安住するため新たな清き館を建てたのだ。このことは法華経に書かれてあるらしい。

「観自在菩薩は補陀落迦山上柔らかき草地の上に、二十八部衆を従え、金剛宝座に結跏趺坐して説教をされた。伝々」と。

また若き釈尊は、この説教を聴聞してその卓越した教えに感激とともに心機一転。それまでの皇太子の位を放棄し、一大決意のもとに紊れていた俗界を離れ、壇特山を深く分け入り菩提樹したの石上に安座し、一意専心悟道に入るべく、修行三昧に耽ったとのことである。
そうして行成り出山するや、いよいよ釈迦牟尼如来として仏法開示にとりかかられたのであるから、実際上、仏法の本当の祖は日本の伊都能売神であったことは確かである、というのが「仏教の起源」と題した茂吉独自の神観である。

そして日本から仏法が出た証拠として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく唱える『本地垂迹』という言葉である。茂吉の考察によれば、本地とは本元の国すなわち日本であって、垂迹とは教えを垂れるという意味らしい。これは「最後に至って故郷である日本全土に一度仏の教えを垂れるとともに、仏華を咲かせ実をみのらせなければならない、という密意」だというのだ。まったく通説とは反対ではないか。

さらに観世音の姿をみると、そのもっとも特異の点は漆黒のまっすぐな頭髪であるが、これは日本人特有のものである。それに引き替え釈迦、阿弥陀はまったく異なった赭色で、螺髪という縮れた毛であるから、両如来がインド人であったことは明かであろう。

観自在菩薩は最終的に観世音菩薩と名を変えられた。梵語ではアバロキティシュバラというのであったが、中国の鳩摩羅什という学者が翻訳し、観世音と名付けられたということである。

さて、伊都能売が去った後の日本はどうなったか。これも面白いのだが、弟神であったのが天照天皇であったとのことだ。この天皇は惜しくも何の理由もなく崩御したのでやむなくその皇后を立てて位についたのが、彼の女性である天照天皇であった。天照大神が日の神でありながら女神として祀られているのは、そういう訳だというのである。

また、素戔鳴尊は日本の統治権を得んとしてあまりに焦り、目的のために手段を選ばず力の政治を行った結果、人心は乱れ収拾できないまでに至ったので、父である伊邪那岐尊の勘気に触れ譴責のやむなきことになった。しかもそののちも悔悟の情がなく依然のままなので、最後の手段として日本を追放されることになった。古事記にはこう出ている。

「素戔鳴尊の素行や悪性に対し、伊邪那岐尊のお咎めを蒙り神譴いにやられた」と。

その行先は黄泉の国だった。黄泉の国は母神である伊邪那美尊がいるので、罪が赦されるまで母神のもとでしばらくのあいだ謹慎しようと思って出発の前、天に在す姉神・天照大神に暇乞いをしようとしたのである。

そして素戔鳴尊は天に昇ろうとしたのであるが、荒ぶる神スサノオのそのさまは山川響動しという表現のように、その光景もものすごい勢いだったようだ。それを知った天の神々、そして天照大神さえ大いに驚いた。

「さては弟の素戔鳴尊は自分を攻めに来たのではないか」

疑心暗鬼を抱き、もしものために軍備を整えていた。そこへ素戔鳴尊は天に上り、天照大神に面会した。

「どうも姉神の様子が普通ではない。姉神は私を疑われているようであるが、自分の肚は何等の邪念はない。この通り潔白であるからいまその証しをお眼にかけよう」

自分はそのような邪心はない。素直な気持ちで訪れただけだ、という証明を見せるため尊は剣を抜き天の真奈井の水を注ぐやたちまち三女神が生まれた。そして天照大神は、

「では自分の清い心も見せよう」

と申されて、胸に掛けた勾玉を外し、同じように水に注ぎ揺るがしたところ、五男神が生まれたのであった。

茂吉に言わせると、これは比喩であり実際はそのとき素戔鳴尊は三人の息女、天照大神は五人の重臣を呼んだというのである。そして両神は右の五男三女を証人として一誓約をした。その誓約とは古事記で有名な天の八州河原の誓約≠ニいうもので、近江の琵琶湖(天の真奈井のことを指すそうである)を中心として東の方を天照大神、西の方を素戔鳴尊が統治するという約束をしたのだ。つまり現代風にいえば、平和条約である。

しかし、そののちも素戔鳴尊は相変わらず謹慎の色が見えないので、最終的に本当の追放となった。

ここで昔から入口に膾炙されている竜宮の乙姫≠ニいう女神のことを書かねばならない。それを説明するには、少しさかのぼる必要がある。伊邪那岐、伊邪那美尊からは五柱の男女の兄弟が生まれている。長男は伊都能売尊、次男は天照天皇、三男が神素戔鳴尊、長女が稚姫君命、二女が初稚姫命である。このあたりは、古事記から見ると非常に異説である。

伊邪那岐命はまず伊都能売尊に日本を統治させ、次いで天照天皇、天照皇后の順序に計らったのであるが、素戔鳴尊には最初から朝鮮を統治させたのであった。

そして素戔鳴尊の妻神をされたのが朝鮮で出生した姫神であって、この姫神となった。言わば弟姫であるからこれをつめて音(乙)姫と呼ばれたとのことだ。昔から「乙米姫」とも言われたらしいが、これは未婚のときに朝鮮名のなかに米の字が入っていたからであろう、と述べている。

弟姫すなわち音姫は夫神が流浪の旅に出られたので、それからは孤独の生活となった。そして間もなく故郷の朝鮮へ帰り壮麗な城郭を築き、宮殿内に多くの侍女をはべらせ空閨を守っていたのである。ところがそのころ信州地方生まれ太郎≠ニいう若者が、漁が好きなのでよく北陸辺りの海岸から海へ出ていた。するとあるとき大暴風に遭い、かろうじて朝鮮海岸に漂着して救われたが、当時としては日本人も珍しがられていたので男禁制の王城内にまだ招かれたのだそうだ。

女王各である音姫は寂寥に堪えなかったからであるが、とにかくお目通りを許されたが、太郎という若者が世にも希なる美貌の持ち主であったからたまらない。一目見るより恋慕の情堪えやらず城内に滞在させることとなったという。

しかし、この事実がいつしか人民の耳に入り、非難の声が喧しくなったので絶ち難き愛着を絶つこととなり、素晴らしい宝物を箱に納め土産物として太郎に渡し帰国させた。これが玉手箱である。浦島という姓は、朝鮮は日本の裏となっているということで、後世の作者が伝えたのではないだろうかと思われる。

音姫が朝鮮の女王であった時代は日本も中国も圧倒されており、インド以東は朝鮮の勢力範囲といってもいいほどだったらしい。もちろん、それは素戔鳴尊が飛ぶ鳥も落とす勢いであったからでもある。ちょうどそのころインドでの経綸を終えた観自在菩薩は、帰国しようとして今の中国の南部まできたところ、まだ日本は危険の空気を孕んでいることが分かったのでしばらくそこに滞在することになった。

そのときからが観世音という名になったのだ。つまりインド滞在中は自在天の世を客観≠オていたので観自在といい、音姫の世を静観≠キることとなったので観世音と名付けられたのであろう。

観世音を逆に読めば音姫の世を観る≠ニいう意味になる。そして中国南部において教を垂れたのだそうだが、なにしろ徳高き菩薩であったわけだから、四隣の民草は親を慕うが如く寄り集うありさまで、そのため観音信仰は中国全土まで行き渡ったのである。今日といえども中国全域のみではなくモンゴルやチベットに至るまで観音信仰は依然として衰えを見せないのは、深い理由があるのだそうだ。

このように古事記・日本書紀のみならずいっさいの書物からはずされてしまった伊都能売神であったが、庶民から慕われる観世音菩薩として名を残していたことが事実だとすると、まったく驚かされる内容であろう。素戔鳴尊からの迫害と、時代の経綸のままにしたがった。なすがまま、神のきにきに、というこの姿勢が伊都能売の性質なのである

「明烏阿呆伝」 中島多加仁 著


五井昌久と千鳥会

町を歩くと、「世界人類が平和でありますように・・・」という小さな看板をよく見かけます。
この看板は白光真宏会という宗教団体のものです。
実は開祖の五井昌久氏は岡田茂吉氏に影響を受け、その後、生長の家の講師をされていましたが、千鳥会に影響を受けて立教しています。
尚、文中の
C会は千鳥会H霊媒は萩原真氏S博士は塩谷信男氏の事です。
また、交霊会に出てくる
O仙人とは大峰神霊のことで、現在も真の道で中心的存在の指導神霊となっています。


・・・昭和二十三年の年に入ってゆき、一月も半ばを過ぎた頃、私は幸田さんからY氏のところでC会という神霊現象の会が行われることを聞き、その会員となった。C会は、心霊科学協会分かれた会で、H霊媒とS博士を中心に発足したばかりの会であった。

私は以前から、心霊科学協会の物理現象実験会に出席していて、メガホンが飛んだり、机が動き出したり、時折り霊魂の声を聞かされたりしていたが、それだけの実験は何度見ても、霊界幽界があり、あの世では人間が生きつづける、という認識を得るだけで、神の実体にふれることはできない。もっと高度な神霊の出現するところを知りたい、と思っていた。生長の家では、予言能力、予知能力がない。ただ、一般的教理を体験談にまぜて説き、その場、その時の質問に答えるだけで、その時々の現象的相談に応ずる確たる指導はできない。一般論をその相談に適合させてゆくより指導方法をもっていないのである。したがって、ながながと説教するより仕方がなくなってくる。後はただ問題解決のために祈ってやるだけである。だがそれだけではどこか物足りぬ、満足し得ないものが、相談する人は、またどこかの行者か霊媒の人々に改めて相談にゆき、良きにつけ悪しきにつけ、確たる返事を聞いてくる。生長の家だけでは、現実問題が解決し得ないで、そうした行者層をまわっているうち、低い宗教団体に転落していゆく人がかなり多いのである。

人間は現実面の問題となると抽象的宗教理論をいくら聞かされても、納得できないものである。「明日の生活の金がないのです。どうしたらよいでしょう」こんな必死の相談にこられた場合、悠長に宗教理論を聞かせているより、「どんな知人がいます。うん、そのAさんのゆきなさい。なんとかしてくれますよ」というふうに、具体的な金の出場所を教えてくれたほうが、その人にとってはありがたい。

私はつねづねこうした具体的相談を持ち込まれては、生長の家の理論だけでは自己自身も納得できぬ辛さ、感じさせられていた。

その頃の私は、神想観という祈りを毎朝、毎晩、やっていたが、しだいにその祈りの時間が長くなり、深くなってきて、つむった眼の前に種々の霊魂の去来するのがみえ出していた。合掌している両手が霊動することもあり、祈りの中でインスピレーションを得たりすることもあったが、まだほんのわずかの霊感であった。

人を救うために超人的力がほしい。とメーデー以来強く思っていた私の心にお前は力のでる人間だ≠ニいうような思いがふいっと浮き上がってくることがあって、私の精神統一に拍車をかけるのである。

C会は、心霊科学協会のように、科学的に霊魂を研究する会ではなく、宗教的と政治的意識をもった神界、霊界、人間界の協力団体で、会員は同志的結合の下に、日本再興、世界救世の大祈願を揚げていた。

会員の中には生長の家関係の人たちが、かなり顔をみせていた。いずれも理論だけの宗教にあきたらぬものをもって集まってきたのではなかろうか。

私はまだ生長の家には絶対忠誠であり、真をつくしていたが現実面打開に対する弱さ、というか、非積極的な行き方に対して、他のどこからか、それにプラスする力を得たい、と切望する気持ちになっていた。

自分だけが救われて、それでよいなら、その頃の私の心境でも救われていた感じである。いわゆる仏教でいう往相の悟りになっていたのではなかろうか。なぜならば、私自身としては、すべてに対して、なんの不足も不満もなく、天地宇宙に対して、ただただ感謝感謝の日々であったからである。神にまかせきった自由な心境であったのだ、自己のための自己はもうすでにない気やすさは、そのまま還相として、人類世界の苦難、小さくは日本の苦悩を真正面に受けて立つ環境に自らをおかずにはいられない。日本の苦しみは自分の苦しみであり、人類の悩みは、やはり自己につづいているのを、はっきり感じるのである。

自己はない。ない自己のおかれた立場は、日本であり、人類世界である。

神様、どうぞ日本のために私のいのちを有効にお使い下さい。そのための強い力を私にお与え下さい≠アれがその頃の私のたえまない祈りであった。

Y氏邸におけるC会交霊会は、二十畳敷位の日本間で行われた。交霊会の始める前に、フーチを受ける人々の申込みがあり、申込み順から定められた人員だけが、フーチを受けることになった。フーチとは神霊から各自にふさわしい言葉を文字に書いてもらうのである。

一本の竹の一端をH霊媒が持ち、片方を受ける人が持つと、ひとりでに竹が動き出し、竹の真中に垂直に結びつけられてある筆によって、おかれてある紙面に文字が書かれてゆくのである。

私のもらったフーチには

百知及一実行行(百知は一真実行に及ばず)
誠実実行勝万里織(誠実実行万里を織るに勝る)

と書かれてあった。この言葉は私にとって非常に有効なものであったことを今にしてはっきり思うのである。

フーチが終わるといよいよ交霊会が行われる。

霊現象を授けるため、最初に全員でいろは歌と竹の歌というのをうたい、つづいて和楽のレコードにつれて、H霊媒が黒い布でつくられたキャビネットの中でトランス状態になると、牧師のH氏の司会で、交霊現象が始められた。はじめは心霊科学協会の実験会のように、真暗な中で燐光を塗ったメガホンや人形や、テーブルが飛んだり跳ねたりする物理現象が行われたが、やがて、メガホンからK霊の説明がはじめられた。K霊とはH霊媒の友人で若くして亡くなっている人であるという。そのK霊の説明の後で、一千五百年位以前に生存していたといわれるO仙人の道の教えがあった。O仙人は屍化仙といって、屍を残さずこの世から消えていったといわれる修行をつんだ行者なのである。

このO仙人の指導に従って、会の運営が行われ、すべての行事が進められてゆくのである。

このO仙人は神界にあるS太子を中心にいただいて活躍しているといわれ、天皇中心主義の、人類救済運動であり、神界霊界には、そうした同志が多数、この肉体界運営のために働いているというものであった。

仙人はメガホンからばかりではなく、空中からも話しかけてきた。太いちょっとわかりにくい古代調のことばである。

H霊媒のエクトプラズム(註 幽質でもあり物質でもある或る要素)をつかって発声しているのであった。

H牧師や、S博士が種々と質問すると、それに対して即座に簡単な答をする。

その日はC会の片鱗、O仙人の使命をわずかに知っただけであったが、この会に対する疑いなど少しも起こらず、司会者や霊人のいうことをそのまま素直に信じ、この辺からまた何か一段と私の使命が開けてゆくような気がしだしていた。

(中略)

そうした個人的交霊会とともに、C会の交霊会にはどこでも出かけていった。

そのうち、ふと自動書記ができそうな気がしてきた。ひまをみては鉛筆と紙をもって、自然に手の動くのを待っていた。腕が霊動のように動き出しはするが、なかなかまとまった文字はかけない。たまに書けてもそれは私の潜在意識にあることで、霊界通信ではないことがはっきりわかるのである。

(中略)

その頃は毎晩Y氏のところへゆき、C会の会場に自宅を提供しつつ、岡田茂吉氏から分かれて独立しようと考えていたY氏に霊能による助言をしたりしていて、Y氏も、

「もう勤めをやめて、本格的に霊能の修行をしなさい。よかったら私の家へ住み込んでやりなさい」

といってくれていた。C会のO仙人も自動書記を大いにやれ、と空中談話で私に霊能家になることをすすめてくれた。

私はいよいよ霊能者としての修行をしなければなせぬ破目に追い込まれていった。

「天と地をつなぐ者」 五井昌久 著より

大峰老仙は、宗門宗派をこえていろいろな宗教家に神示を与えたり、指導されたりしているようです。真の道以外に、私が知っているだけで真光の岡田光玉師、女性神道家・真手道場の福田くら師、白光真宏会の五井昌久師、真の道から分派した真の道協会などにも神示などがあったようです。
神霊界には、宗門宗派はなく「万教帰一」という言葉がありますが、まさにこの通りだと思います。
また、五井師が指導を受けた「空中談話」とは、大峰神霊が萩原氏のエクトプラズムを使って物質化して声をだして会話をしながら指導を受けるという者です。
(HP制作者)



天杖神示と関東大震災

第一次弾圧後の大本は、国際的広がりを見せ、世界各国の様々な宗教団体と接触を持つようになるのだが、その中でも特筆すべきなのが、中国で起こった新宗教である道院・紅卍字会(道院の外郭活動団体)との提携である。

道院の発祥は大正5年頃、山東省浜県で、熱心な敬神家の呉福林と、駐防営長・劉紹基の2人が、県署に神壇を設け、フーチにより神託を乞うたことに始まる。信仰心の厚い2人は、何事をなすにもフーチによって決定することを常としたという。なお、このフーチは、岡本天明が開いた実験会で「日月の神」が降りた時のスタイルとまったく同じであった。

ある日、尚真人という仙人が神壇に下り、

「老祖久しからずして世にくだり劫を救い給う。まことに数万年遭い難きの機縁なり、汝等壇を設けてこれを求めよ」

との根源的な神の言葉が取りつがれた。
道院ではこの老祖を「至聖先天老祖」と呼び、その下に世界五大宗教の教祖である老子、釈迦、キリスト、マホメット、孔子をまつり、五教同根を唱えた。そして万有和楽の世界天国建設の、天の時が近づいたと主張したが、これは大本の主張するところとまったく同じであった。

王仁三郎はこれについて、老祖とは国常立尊の別名であり、同神異名であると説明している。不思議なことに、道院の設立は大正10年であり、奇しくも第一次大本事件の直後であった。
道院では、フーチによる予言や神託を「壇訓」と呼び、これに基づいた活動を行っていったが、

「日本の首都に大地震が起こる」

との壇訓が出ると、直ちに救助活動を開始した。また同時に、

「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」

とも示された。

当時、南京在住の日本領事であった林出賢二郎は、大本の隠れ信者で、道院についても調べてもいたが、まだ起こっていない震災の救援として、白米2000石と銀2万元を道院から託され、奇妙に思っていたという。が、ともかくも何かあるだろうと、これを日航汽船に託し、東京に向かわせた。

果たせるかな、大正12年9月1日、関東大震災が発生、死傷者15万人以上、家屋の損壊69万4000戸、被害総額は当時の金で100億円という、莫大な損害をもたらした。

そして、道院からの義捐米を積載した舟は、9月1日には既に横浜港に接岸していたのである。

神秘極まるこの事実にうたれた林出は、大本と道院の間に立ち、東京に震災慰問に出発する幹部の候延爽ほか2名からなる一行に、王仁三郎と会うことを進言、その手はずを整えた。

日本に着いた候一行は、11月3日綾部を訪れ、王仁三郎と会見した。これを契機に、両団体の交流は急速に進み始める。

大正13年、道院は外郭団体として世界紅卍字会を設立、慈善事業などの社会活動を行い、その勢力は満州と華北を中心に、中国全土までおよんだ。信徒の数は600万人にのぼったという。

大正13年3月6日には、大本の援助により、日本で最初の道院が神戸に設立、以後両者の関係はますます緊密化していった。さらに道院の壇訓に、

「中国の道院は日本の大本、日本の大本は中国の道院なり」

と出るに至り、両者はほとんど異名・同一の団体となる。王仁三郎は道院の最高神である、至聖先天老祖の地上代行者として絶対的な権威を確立、日本にとどまらずその指導力は東亜圏までおよぶものとなっていく(昭和4、5年ごろ)

「日月神示」中矢伸一・著



岡田茂吉とフーチ

また大本教は、中国に起こった新宗教の道院・世界紅卍字会とも交流があった。昭和五年の三月には、同会のの幹部一同が、東京麹町の大本教信愛会本部に来られたことがある。その時教祖様は、綾部の本部で右の会のフーチ≠ェ行われた際に記されたという、「浄」と一字大書した脇に小さく岡田茂吉≠ニ書かれてあるものをもらわれた。これは、この教祖様の世を救うべく浄化する使命を暗示したものであろう、と見られているのである。

フーチ≠ニは、同会の特殊な秘法で、その祭神である「至聖先天老祖」の予言や警告のごときお知らせを、壇訓として、釈迦や孔子その他の霊が、丁字形に下がった棒先で四角な浅い盆の銀の砂の上に一字ずつ書かれるのを、脇から書き取るのだそうであるが、外れたことは一度もないという。これにも、このたび世の大転換のある事がはっきり予言されているというが、後には、先方から一行が熱海の教祖様の所にわざわざ訪ねられており、今はこの支部は東京の港区にもあるようである。


「岡田茂吉メシア様とは」設楽登茂麿 著より