ここの掲載資料は、女性神道家・福田くら氏の著書から抜粋しています。
福田くら氏を指導された神霊は大峰老仙です。大峰老仙は福田くら氏の他にも、「真の道」の萩原真氏、
「真光」の岡田光玉師、白光真宏会の五井昌久氏に神示を与えられたりした高級神霊です。

病気はなぜ起こるか? 須らく浄霊に献身 積極的に贖いを行ずる 真の幸福の第一歩
除霊だけでは危険 心霊へのみち 岩戸を開く秘密のしぐみ
神の結ぶ火水の結婚


尚、抜粋している福田氏の著書は、参考資料をご覧ください。


病気はなぜ起こるか?

病気の原因は沢山あり、また複雑で簡単に申せませんが、現在医学的に知られている原因の外に、霊的原因もその一つであります。病気に罹ったということによって霊的因縁の消される場合もありますが、根深い因縁になると、放置しておいたのでは、なかなか消えません。

御神示には霊法真手で癒らぬ病気はないといわれますが、天寿もあり、また受器の整わぬ人もあり、つまり神からの霊気受けるだけの心構えが整わぬ方もあり、心の持ち方もあり、一様には申されませんが、病気になった時は真剣に反省する機会であって、古人が「病気を措いて山中なし」といわれたように、深山幽谷にまさる大切な修行道場であります。いい替えますと一つの病気を克服することによって、自分のみ魂の浄化向上があると確信いたします。

病気、災難、不幸等を一つの機縁として神を知り、霊界の存在とその消息を知ることになれば、病気もまた捨て難いものであります。若し自分の魂が浄化向上して完全なまことの姿であったなら、病気、不幸、災難などは絶対にないと思うのであります。

昔からそれぞれの宗教が心の糧として、人々を善導された功績はまことに偉大でありますが、それにもかかわらず浮かばれない霊が、この世に充満して現代人に憑依して救いを求め、また恨みを晴らさんとして災禍、不幸をなしています。この世が罪悪と汚濁に満ち、人類が常に闘争と病苦に悩まされ勝ちなのも、こうした霊のためでありましょう。

イ、人が自分の天命を悟らずして勝手なことをしている場合

ロ、憑依霊、または恨みの霊の場合

ハ、先祖があがない切れずに死んだ場合

ニ、地縛の霊の所作による場合

ホ、禊の場合

ヘ、他人のために代わって禊をする場合


等々種々の原因がありますが、つまり自分のみ魂浄め根本であります。


須らく浄霊に献身

浄化には自動的と他動的があります。自動的は自ら贖を甘受して次々と贖いのすむのを感謝しつつ神にすがり、一切をお委せして精進してゆくのです。大難は小難ですみ、次第に悪因縁は解消して自分の「魂」は浄化向上し、やがてその身は病気や災禍から遠ざかり、幸福の人生が送られるようになることは必定であります。しかしこの道は、なまやさしいものではありません。いい易くして行いの難いのであります。

迷妄の世界に住んでおります一般の人達は、病気、災禍も真剣な問題であって、何かしら不安を抱いているのが人生です。喜びの絶頂から、悲しみのどん底に突き落とされる時もあります。人の力では、どうにもならぬことがつきまとっております。病気はないと思い込める人は、一時は癒ったようになることもあります。またこれは自分の罪業消滅と気づいて神仏にみ恵みを感謝して贖いをする心になった時は、好転するのは当然であります。それはその人の贖いが一つ済んだと喜べる境地に達し、その人の魂が向上し浄化すると共に、憑依霊も共に次第に救われて行くからであります。然しそういう人々にも、現実的には病気もし、また災禍にも遭遇します。自動的浄化の道は、自分の心掛け一つで、人手をかりずに、如何にも簡易のようですが、実行は極めて困難な業であります。それで容易に浄化の道を開かれたのが霊法浄霊、愛の真手であります。

憑依霊を救って成仏させれば、霊は感謝し、その人を守護するようになります。贖いをすませば病気も災禍も免がれることができます。憑依霊は憑くだけの理由があって憑いているのですから、憑依霊を無理に暴力的に押し除けても病気は一時的に消えます。しかし浄化したのではないから危険であります。強力な霊力の持主が早逝したり、また不運なのは邪霊の復仇をうけるからであります。なかには狂人になる方もあります。病気や災禍は邪霊達から救いを求めるか、または恨みを晴らさんとして病気や不幸に陥れ入れているのですから、ただ押し除けたのでは決して救うことはできないのです。真心を込めた浄化に限るのです。

また悪い家室、土地などでその家に引っ越して来ると病人が出るとかいうのは、その家や土地に浮かばれぬ霊がいて災いを起こしていることが多いのです。よく自殺者が出る踏み切りとか、変死人の出る場所、投身者の出る淵とかに、自縛の霊といって浮かばれない霊がいるのです。

大抵の病気は、憑霊による原因がなかなかに多いのであります。


積極的に贖いを行ずる

私共があがないをすると申しますのは、第一に祖先が贖い切れずに死んだために、浮かばれずにいて、子孫達に憑依して救いを求めているその祖先達を浄化成仏させるためであります。次にはそれによって自分の背負っているお荷物を降ろして、自由無碍の心身、つまり神我一体の幸福境に入ることであります。

あがないは私共が一日も早くその魂を包み、魂にこびりついている垢や塵芥または泥を拭い去って、神より賜った本来の清い玉の光を現して、神人一体の幸福境に浸かるようにとの神のお恵みから、私共に下された魂磨きの手段でありますから、じっと辛棒して終わるのを待っているよりも、自ら進んであがないを行ずる方がはるかに優っていることは申すまでもありません。それは神や仏の道に精進して、神にも人にも、己れにも真を尽くせるように行ずれば、短い期間に苦痛も少なくて贖いを完うすることが出来ます。


真の幸福の第一歩

運命開拓、真の幸福への第一歩は、先ず因果応報を知ることであります。何事も原因なくして結果のみ起きるわけではありません。結果のみ掴んでとやかくいうよりも、まずその原因を知って浄化することが必要であります。神霊からは「偶然はない」とかたくお諭しいただいております。

一般の人達のなかには、因縁とか因果と申しますと、迷信のように考えて嘲笑する方が少なくなりません。また笑わないとしても、そうしたことに意をかけない方が多いようです。

私達はそれぞれ前世や先祖代々の因縁を背負って生まれて来ていますから、善因善果、悪因悪果の法則に従う。その大小軽重の如何によって一様には行きません。困ったことにはこの背負っている善因悪因のお荷物の重さや大きさが、誰にもわからないのであります。善因なり悪因なりを積み重ねても、その相殺精算される割合を知ることが出来ぬために、その人その人の善果悪果の現れに対して、不平不満が生まれて、果ては神仏を呪うようなことにもなるのです。

しかし宇宙に因果律という大法則が厳存する以上、人間の行動や思念だけが、埓外に置かれるわけはないと思います。その一生の間に、善果悪果が証明されぬからとて、これを一般の因果律から切り離して迷信とはいえないでしょう。それは丁度蚕や蝶の生涯のようなもので、蚕自身は知らないが、人間はよく視察して育てていますからよく熟知しています。

人間を愛育し給う神様は、私達の霊の全生活を見通しでありますから、肉体時代の全生活と過去、現在、未来すべてを知っておられます。人間の肉体生活時代のみを見て一生と思い、誤って考えている人達がなかなか多いのでありますが、健康状態も幸不幸もみなその前の霊的生活時代に胚胎していることを思えば、人間の行動や思念における因果律は霊的生活時代における善因悪因が肉体生活時代の善因悪因となって現れて来ると思います。肉体生活時代における善因悪因の大部分は、死後霊的生活時代に善果悪果として実を結ぶものと信じます。このいかなる人も免がれぬ絶対的な因縁というものを知ることが、つまり幸福への第一歩となります。しかし、知っただけでは幸福にはなれません。悪因縁を解消した上において始めて幸福の殿堂に到達するのであります。因縁だから仕方がないと諦めるだけなら、人生は暗いものになって、仕事にも張り合いも出ず、結局悲観した一生を送ることになりましょう。またどんなに「因縁はない」と主張して見ても、現実に背負わされている因縁は。決してなくなるものではありません。その因縁によって現実に病気もし、また不幸災難にも遭遇するのであります。


除霊だけでは危険

霊の修行は、神とか仏とかにとらわれず、自由の立場で霊魂の改造、大掃除から始めます。

邪霊・悪霊・地に堕ちた霊たどの浄化は、現世で最も重要な神業であります。浄霊は、この世のケガレかち不幸な人々を救うただ一つの道であります。世界にいろいろスバラシイ教理や聖典を持たれた宗教がありながら、人類を今のように汚濁の世の中におい込んでしまったのは、太古からの無数の邪霊・悪霊・迷霊たちが、.黒雲のように世界をおおい、人類を争いと不幸にかり立てておるからであります。

「教え」は「道」ではありません。どんな立派な教えでも、因縁を解消する方途が伴なわねぱ、絵にかいた餅だと神霊から承りました。本当の幸福は自分の因縁を解消することであります。

一時は真剣に精進し祈っても、自分の守護霊と一体化せず、一寸でも利已的な猜疑心や、ご利益が現われぬといって不信を抱くと、神から遠ざけようとする邪霊たちに誘惑されます。

人にはそれぞれ、沢山の霊が憑依しております。特に宗教にたずさわっている人たちは、自分には決して懸いていないと思い込んでおられますが、これは大きな誤りであります。この黒雲をふき払って、人類を救う道は、ただ「浄霊」のみであります。

「除霊」と「浄霊」とは、全くちがいます。

強い霊力で、一時的に禍わいを取り除きましても、「あがない」を済まさぬ以上は、必ず別の形であがないさせられます。世の多くの霊能者たちが、早世したり、不運た晩年を送ったり、精神異常を来たすのは、邪霊たちの復讐をうけるからであります。
私たちの祖先が、何万年もの間に積んで来た業報ですから、なかなか容易ではありません。

救った霊たちは感謝して、私を守るようにたります。これは私の六十年来の体験であります。




心のすき間にさす魔物、神仏を忘れて怠ると心のすき間に魔が入り込みます、

浄霊は教えではありません。だから、かくかくしなさいと指図をする時は死物と同じだと、言われました。
心すべきことと思います。教えでは救われないと、いつも伺っておりました。中には神仏はないと言う人もおりました。そのような人でも、皆救われておられます。

「天の道はものを言わずして教えて下さいます。」このものを言わずに教えて下さる教え見つけ出さぬと、何も判らないのです。私は神仏を敬しております。その心が神に感応して、いつもお仕組みを頂きます。

「神は敬から・威力を増されます。」私の心の中にいつも大神様がおられます。広大にしてこれが神だと軽々しく知ることはできません。良心とはまた違います。私は良心の源の、またその源の真大神様であり・天地の道の心のことだと思います。信心堅固のその時は、魔物がいろいろ手をかえて、魔王の脊族が集まって、修行の邪魔をいたします。


心霊へのみち

1 気合術とその師

人としてこの世に生れて、幸福を望まないものはありません。その幸福の内容はいろいろありましょうが、何と言っても「まず健康」が第一条件であるように思われます回お釈迦さまは生、老、病、死を四苦とおっしゃって人生最大の苦と教えておられます。浅学の私には仏教の真の哲理は到底解し得られませんけれども、子供の頃から病気の問屋とアダ名される程の病身だったので、病人への同情は人一倍であり、その病気の中から信仰も幸福も発見したのであります。すべての病気が医薬だけで治癒するものではなく、病気もまた時には仏の慈悲であり、神からの禊(ミソギ)であることも悟らせていただきました。
そして秋自身が健康になれただけでなく、多くの人々を健康と信仰にお手引きすることさえできました。

今から四十五年の昔になります。私が三十三歳の時でした。夫に病死されたので長女を連れて生家に帰って居りました。病弱の私は当時不思議な病気を患っておりましたので、母のすすめて呉れるのを幸いに、搦れるものは藁をもつかむの思いで、平岩霊真先生の講演と実験会に参りました。

先生の講演は、要するに人問は心の持ち方が大切である。病気になるのも治るのも、みな自分の心の在り方いかんで決定する。われわれの精神力の神秘は皆さんの想像も及ぱぬものであり、これぱかりは科学以上のものである。これから実験する気合術なるものは摩詞不思議なものではなくて、その精神作用の応用にほかならないということでした。

痛くないと思えばこの通りと言いながら、畳針ほどの太い針を、平気でブツプツと自身の顔に幾本もさしてみせました。熱くないと思えぱこれこの通りと、真赤に焼いた鉄棒を素手でしごき、一切れないと思えぱと言って、素足で刃の上に立ってみせます。しかもそれは白分だけでなく、門人達大ぜいもそれぞれ実験をいろいろして見せました。

私は生れて初めて見せつけられたその不思議さに魅了され、スグ入門しました。十三歳になる長女は肺結核のような咳をつねづねしておりますので、これも入門させました。ところが三回の施術で快癒したので、いっそう気合術なるものを信じ、先生の指導のもとに熟心に修行練磨いたしました。

基本講習は僅か七日間でしたが、修行の甲斐あって会期中に最初不思議だと思ったいろいろの実験が私にも出来るようになり、病気もいつか消えてしまい、他人の病気治療も出来るようになりました。それ以来私は心身共に文字通り生れ変り、現代医掌を超越した精神作用の神秘をますます探求してみたくなり、電気療法、催眠術、自彊術等を研究いたしました。気合術の病気治療法は「霊動」と言って現在の真手の形式でありました。

平岩先生は若くして肺結核におそわれ、一度死を決心されて山にこもりました。時に不思議な霊感によって気合術を会得され、白分が救われた喜びを抱いて門人を指導し、病者を救済されるというお方でしたが、私が入門して幾年も経ずして、惜しくも病気再発して他界されました。先生がこの世に送られた気合術師は幾人あったかは存じませんが、私は今なお四十四年前のその気持によって生き通しております。

現在私の天職と心得る真手の礎も、また心霊研究の発端も延いては私の幸福も、すべてこの気合術の賜物でありまして、終生忘れることのできない大恩人であります。霊界にあられる先生は、今もキット私を見守っておいで下さることと信じます。


2 法華行者と罪障消滅

気合術の修行から、いろいろの精神療法の研究応用の結果、白他共に健康を取戻したように見えた私は、その後再婚の話が成立して大阪市に行きました。ところが結婚以来、またも病難災難の連続でした。その時ふとした奇縁で結ぱれたある法華寺の住職が、一私に死霊が憑いているから、それを封じ込まねぱ病気も不幸災難もまぬがれないというのです。しかし当時の私にはとても信ぜられず、ひとまず東京に帰って、病院生活を始めました。三ヵ月の入院は離婚を迎えただけで全快にいたらず、退院後も幾月も寝たり起きたり温泉旅行などしてブラブラしていましたが、後になってみますと、それらの経過がすべて、目に見えない不思議な因縁の糸に操られていたと考えられます。

入院中に懇意になった方の紹介で、麻布四の橋の法華行者、市原泰修先生の道場に通うことになった私は、教えられた通り、力強く南無妙法蓮華経とお題目を唱え初めました。すると待ちかまえていたかのように、合掌した両手がブルブル震え出し、どんなに止めようとしても止まるどころか、ますますはげしく震え出し、それぱかりでなく、私の眼から烈しく大粒の涙が流れ出し、恨みの言葉がスラスラと出るのです。私は大阪の住職に言われた言葉を思い出し、始めて死霊の愚いていることがわかったのでした。そして恐ろしさと好奇心も手伝って、つまり研究心が湧き出して毎日朝夕二回も道場に通うようになり、一心不乱に罪障消滅祈薦を続けていただきました。

その死霊は「倉吉」と名乗り、二百年もの長い問私の家を呪い続けたとのことでした。いろいろ長い物語もありましたが、後日すべてが実証されました。とにかく人間に死霊が憑依して、病気や災難の因縁となることを深く信ずるようになりました。倉吉霊が浄霊されてのち、つぎつぎと数名の霊達が憑いて来ましたが、みな親戚の人々で、判り易くいいますと、浮ばれぬ仏達の救いを求めての姿でした。

人間に死霊が憑いて語るなどということは、恐らく信じて下さる人はないでしょうが、私は自分の体験を通じて、誰が何と申しましようとも、絶対確信しておりますし、欧米の心霊掌者も立派に証明しておられます日しかし、人生は何も彼も霊の祟り、先祖の障りと説いておられる宗教もあるそうですが、先祖の善悪の因縁もあり、死霊の憑依もあり、そして本人の心掛けや行いにもよるという、つまり霊肉一致の人生観が本当ではないかと存じます。


3 身延山神力坊の原上人

私を愚台(霊媒)として発言する霊達全部が浄霊されて、それぞれ成仏してしまうと、もはや何を聞かれても発言せず、合掌する手は微動にいたしません。これで罪障消滅が成就したというのだそうです。こうなるまでには随分市原先生のお世話になりました。その先生がまた、この世のお仕事を終られましたか、間もなく他界してしまわれました。

しかしこの修行で私は、本当に病気の根を断ち切り罪障が消滅したものと見え、すっかり健康を取戻すことができました。それ以来四十余年間病気一つせず、ひたすら、御魂磨きの修行を続けておりますが、神仏の御加護もさることながら、やっぱり罪障消滅の結果と感謝しております。

その後御縁あって、身延山神力坊の原上人を師と仰ぐことを得ました。原上人は俸大な霊力の持主でしたが、二十年来米飯を口にしたことのないという変ったお方でした。お酒も大好物でしたが、三度の食事が麺類ぱかりで、日蓮宗呼び物の百日の荒行を自宅の道場で毎年続けておられました。

当時神力坊は小松川に道場かありまして、昭和十一年三月二十三日始めて参詣し、原上人の祈祷を受けました。すると「倉吉」霊に再び会うことができました。この霊は先年市原先生の道場で修行した時、私の身体に最初に現われた霊ですが、その罪障消滅の最後に「これより幾年かかるか判らぬが修行ののち再びくらの守護霊として現われる」と発言してその時限り発言は止まり消息を断っておりました。この倉吉霊は、私の七代前の祖先およそ二百年程前に当ります。福田家は、福井藩主の扇子御用所として代々福井市に在りましたが、先祖越後屋仁右衛門は高田松平忠昌公の福井入国に随いて寛永三年に福井市に移ったものと記録に伝わっております。その扇屋玉雪堂の番頭であったのです。倉吉霊は私と共に修行をしておりまして、守護霊となられましたから、その証拠の一つとして「六月一日くらの最もよろこぶことをお目にかけます」と申して発言が止まりました。

その頃私は手頃の家がほしくて知人に頼んでいた際のこととて、最も悦ぶことはこの家のことか知ら?あれかこれか?と都合のよい考えを楽しみにして六月一目を待っていました。


4 倉吉霊の予言と七つの倉

倉吉霊の予言があってから、すぐ五月七日同行の皆さん方と始めて身延山より七面山へ登山させていただきました。私の日常はただただ毎目が楽しく朝断食で日参しておりました。すると五月三十日のこと、ある人の紹介で私は高円寺三丁目都電車庫前の売家を見に行きました。二軒続きに建てられてありましたが、一軒は理髪店、一軒は住宅になっており、しかも理髪道具一式つきで至急に譲って帰国したいというのです。価格も非常に安いので、私は考える間もなく買うことにしました。

そして地主の諒解を得るために、その売主と私と母の三人で、その附近切っての大地主たる葬儀屋さんを訪問しました。ところが驚きました。売主が「大塚倉吉」で、その妻が
「くら」買わせる霊が「倉吉」私が「くら」地主の御主人が「倉吉」養子が「倉助」此方の長男が「倉雄」それだけではありません。私の買った家の向いのお宅の奥様が、私と同年で「くら」です。偶然といえばそれまでですが、神霊は偶然はこの世にないといわれます。

そして六月一日には、売主とも地主とも契約が成立したのでした。

今日まで霊の憑依なんて迷信だと、私を気違いのように思って心配していた母も、霊の実在や因縁の不思議を信ずるようになりました。その頃の私は、何彼につけて倉吉霊の発言による指図によって、すべてが好都合に運ばれて行くのでした。

原上人が、この霊を守護神として祀るべくその勧請式をいたしました。この際、原上人は守護神としての挨拶をされますと、倉吉霊は「私は守護神ではありません。いと尊きお方のお取次ぎをいたします。恐れ多くて、私如きものの口にだに出せません。今朝くらに夢で知らせてあります」と発言されて、今後は守護霊とお呼びすることにしました。

私の夢というのは、「山王山王」と大きな声で、お姿は「観世音菩薩」でありました。守護神及び守護霊をいただいた後も、発言によって断食修行もしましたけれども、苦行とは思わずむしろ楽しみでありました。その間、霊視、霊耳、霊香、お筆先(白動書記)等も初めて体験いたしました。と言いましても、私の体験は救世主の出現ではないが、神憑かりであり、霊能であることに間違いはありません。私なりにいろいろ奇蹟的な事実に数限りなく逢いましたが、いずれ発表する日もあるかと思います。

修行に余念のない私は、いつか職を持たなくなりました。ただ心霊の導きのまま「神仏」の御守護に委せきって、生活の不安がないばかりでなく、毎年処々方々の神社仏閣を巡拝したりして修行を続けて来られたというのも、現代に生きる者としては奇蹟の一つといえるのではないでしょうか。私なりに証明できるものも有難いことであります。


岩戸を開く秘密のしぐみ

水晶世界の実現

岩戸を開く秘密の仕組みは「火と水」にあると伺ったことがありました。秘密は本当は火と水のことで、この火と水の仕組みがわかると、何事も秘密がなくなるし、赤と白、火と水のアザナイの原理がわかると、今日の世の乱れを来たすこともわかるということであります。

天国は久遠の光明世界でありますから、秘密とか暗とかいうものはありません。地上で世の乱れとか嵐とかいうのは、不調和から来るものと解します。

世の活動現象を起す源泉は「火と水」であります。宇宙は「火と水」陰と陽のあざないで生成発展するのです。

日と月、つまり火と水の光が相結び相発現すれば、天地間一点の秘密もない。水晶世界は、このような「おしぐみ」の上に今近づきつつあると思います。

現界しか見えない、肉眼から霊性に眼ざめるには、余程の修行がいります。大抵の人は自分だけしか知らないと思っているが、その自分には守り主を始め、沢山の守護霊がついているのですから、その人の行為は細大洩らさず知りぬいています。従って、天界に対しては何事もつつぬけに丸出しであります。天界に丸出しの行為は、自然と他人の守護霊にも知れます。工合の悪い相手の人などにも知れる結果となります。知られて困る相手の守護霊は知っても、肉体の本人は霊的に眼くらだから、さっぱり気づきません。差当りいいようなものの、何時かは霊夢とか、勘で知らされることもあるのです。又気づいている霊目体が何らかの働きをかけることがありますから、決して油断は出来ません。

事実悪いことは何時かはバレて来ます。それは霊的導きによるものであります。悪事を犯した本人が守護霊の苛責により、苦しめられているうち.はまだいいとして、そのうち慢性になって、忘れた頃に突然思わぬところからバレてくるのは、最早天界に知れ渡って、それからいよいよ現界に反映した時であります。世の中の不幸や災厄と思われていることは、大抵このかくれた罪業のあらわれであります。自分の行為を見ておられると思ったら誰でも、うしろめたいことは出来ません。

私には昼夜大神様を始め諸仏諸天の眼が自分に向けられていると思うと、何をするにもたのしみであります。今から六十年前に、伯母の見張りの中でお掃除をさせられたしぐみを思い出し、私は母の胎内にいる頃から、お掃除の御使命を大神様からいただいてきたのです。当時の子供心をしみじみと思い出されて来ます。

私達は真の神様という大きなお力の中におりながら、知らずにいる方が多いのです。人聞が神様から尊い生命の根源、智恵の根源をいただいています。永久の生命、永久の智恵をみな人々がいただいて、それを完全に保てば、いつでも神人合一をして、真理のまにまに御使命を果すことが出来るのであります。人間は神様と同じような本質をもっているので、その本質をよく保って完全に養って行けば、直接に神に通ずるのです。人間は慾に溺れて、世の中の道はすたれてしまったので、神は世界の沈論するのを忍びず、大衆が水に溺れ、火に焼かれるような苦難から救い出したいと思召しておられますが、神を求めて心を平和に静めようと思う人は、あまりないのであります。日々ひたすら歓楽を追っています。歓楽は堕落の道と知らず、苦労することによって無上の菩提が得られるのですが、これを知るには、道を悟った時でありましょう。

大峯神霊のお言葉は、私の身体に泌み込んでおりまして、沢山発表させていただきたいのですが、この辺で筆を止めさせていただきます。

人知らず我れも知らずに世の中を
  浄霊しつつありとかや
      知るは神のしぐみなりけり


神の結ぶ火水の結婚

水晶世界につきまして、火と水(カミ)のお仲人をした体験で、不思議なしぐみのことを述べさせていただきます。

梅で開いて、竹で払う、松で納める世の中、いよいよ竹で掃う時がはげしくなって、大掃除をする時が来ました。或る日、工業大学の教授のお宅へ伺いまして、この教授の秘書をおつとめされている方に御紹介されました。この女性は水の性をもっている方です。その帰り松のしぐみのお宅を訪問しましたところ、出された御菓子に、梅の歌が泳まれておりました。

むすぶ実も 変らぬ色も 名は世々に
     青梅の里の梅の一本


そこで私はすでに、或る男性を思い出しました。この方はやはり工業大学出の方で、美男子で信仰家で、申分のない人物、それが独身のため、本当に降るほどの縁談の申込みがあるのです。にもかかわらず、幾年となく断りつづけて来たのです。私も変り物とみておりながら、一日も早く新家庭を持たれるよう祈っていたのでありました。この男性は梅のおしぐみを持っているのです。私が竹のしぐみで、松のおしぐみのお宅を訪問して、この梅の歌を拝見して、神のおしぐみと悟り、さきの秘書をされている方を紹介し、すぐ仲人のお使いをさせていだいたのでありました。まことに不思議な縁結びでございました。この松竹梅のおしぐみのアカシは、数々いただいているのです。

普通の易者の方でしたら、火と水は大層嫌われるのですが、私はこの上もなく相生としてお仲人をさせていただきました。

男性の方は火の性を有し、女性は水の性を有する、つまり「カ、ミ」であります。陰陽の水と火は有形ですが、万一火は勢い過ぎるとき、水が生じて救う作用をして消耗されるのです。

さて、この二人の今までの住いは火と水の方角でありました。又結婚されて求められた新居の方角が又火と水の方角であります。住いの向きがこれ又火と水です。そして住所の町名が又火と水であります。

神が結ばれた不思議なしぐみの火水の結びは、いかなる芽を出しましょうか。火水の大調和よろしく、梅の大きく開くことは確実でありますが、その予告として、この度伊勢参拝の戻り道、種々のアカシをいただきました。心から祝福しております。


神の摂理

私達の周囲のすべてを見る時、一つとして不思議でないものはありません。大宇宙の森羅万象、みな神の摂理でないものはありません。全世界には何十万種の生物が数えられているそうです。その中でも人間として、生を享けるのは、過去の計り知れない善に基づくもので、この逢いがたき人生を、うかうかとして暮すことなく、お互いに心して、悔いのない生活を生き抜かなければなりません。昔の人は「人身遭うこと稀なり」といわれております。

私達の肉体は、血液を動脈管に送る心臓、吸気から酸素をとり入れ、呼気として炭酸ガスを排出する肺臓、老廃物質を濾過して「として体外に排出する腎臓、消化管より吸収されて解毒作用をする肝臓等々の神秘作用の働き、五臓六厨どこか一カ所悪くとも、全機関が相関連しているから、全部ととのえなければならないのです。

大宇宙は広大なる天球、無数の星がその軌道を一歩も踏みはずすことなく、寸秒の狂いもなく運行していることの神秘、この偉大なる神秘に心を向けないものはありません。私達はこの全現象を支配される全能力者を、仮に真大神と呼ばせていただきます。又は全智全能とも、全霊とも呼び、宇宙生命とか名は何とでもよいのです。神の認識に到達することは、意識では不可能であります。神に辿りっく過程は千差万別でありますが、正しくいかに速かに神に到達するかであります。


運命は天の象、地の法

昔から運命という言葉は、一種不可思議に扱われています。人間の行く道はおよそ志とは相違して、思わぬ方面に進む例は非常に沢山あると思います。私もその一人なのです。

運命の運という字は「軍」に「走」をかけたもので、つまり精神的にも肉体的にも戦って運命を開発するのが「運」で、努力開発するのだといってn霊的運命を否認する人があります。努力的運命は当然のことで、常識で考える運命は枝葉のようなもので、結局は霊的運命は力の最も大きいものであります。

私達は母の胎内に宿った時、既に一種の宿命が植えっけられるのです。それぞれ神秘的の活動が始まって、動かすことの出来ない宿命となります。そうして十ヵ月の胎内生活をうけていよいよ出産することになります。この出産が、父母も又胎児も自分の自由にはなりません。今日は早過ぎるから明日にして下さいというわけに行きません。この生れる年月日時間は、全く天地自然の霊的機運に基づきます。この出産の時、運命は確実に当人に賦与されるのであります。まして人間の生れるも死ぬも潮時の関係があるのです。潮時の干の時、死去、出産ということだといいます。天体の引力が直接影響するということであります。天体引力が直接人聞の生死に影響するということは、天の象、地の法によって、人間の運命が左右されているという証であります。

孔子は「富貴は天にあり」といわれた。人間は天と地の精気をうけて生れたものですから、小天地であります。この小天地のもつ心の力は、実に偉大なものであります。心の作用である程度の運命を左右します。私共は一個の小天地であって、どうすれば天地の運行に順応して、自分を善導出来ようか。人間は肉体も精神も、天地間の霊気によって出来ていますから、天地を徳として、同じくすべきであります。けれども生れてしまうと、案外勝手なもので、それぞれ自分の意志の働きで、天地の徳と相反することが多いのであります。この場合、人間の肉体と精神は、天地と離れることは出来ませんけれども、少なくとも人間の意志だけは、天地より離れた孤立したものとなります。この場合、天地の神霊はいかに遇しましょうかを考えねばなりません。これは「内あれば外あり」で、万事万物の
根本原則であります。私共人間は、天とも地とも離れることが出来ません。偶々離れることになるとすれば、それは人間の滅亡ということに他なりません。