古史古伝の代表みたいな竹内文献には、茨城皇祖皇太神宮のものと、南朝竹内家のものと二通りあります。
ここでは、南朝小倉宮竹内家の竹内文書の資料を掲載します。

南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰 もう一つの竹内文書 神道における秘授口伝の一形態 足利尊氏は吉野を落ちられた後醍醐上皇を殺害した

南朝後醍醐天皇の直系・武内宿禰

竹内家には、竹内巨麿とはまったく別系で、南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している家系がある。竹内巨麿は養子だったが、こちらの竹内家は、代々実子に受け継がれ、現在七十三世の竹内睦泰氏にいたっている。この南朝竹内家は、門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。巨麿の竹内家が、越中の婦負郡神明村を拠点とするのに対し、睦泰氏の竹内家は、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点としている。また全国の二上山でも祭祀を行なう。

南朝竹内家には古神道の口伝のほかに、・外伝としての文書なども伝えられている。睦泰氏によればこの秘伝の文書は、『竹内文献』とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。
南朝竹内家の当主となるときは、武内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」が行なわれ、「武内宿禰」の称号とともに「南朝越中宮家」の名も世襲される。

南朝竹内家の行法には、言葉の霊力を高める「言霊の行法」「古神道の呼吸法」「息吹永世の行法」、身と霊を清める「藤の行法」、熱湯の中に手を入れ清廉潔白を証明する「くがたち」、剣によって邪霊を祓う「八雲村雲握剣の行法」などがある。

このように、竹内家、南朝竹内家とかかわりの深い越中富山は裏日本の重要拠点であり、『原竹内文献』が存在していた可能性がじゅうぷん考えられる。『竹内文献』の奥のそのまた奥を見きわめていかねばならないだろう。


「日本超古代史が明かす神々の謎」 鳥居 礼


もう一つの「竹内文書」

竹内文書で有名な皇祖皇太神宮とは別に、いわゆる「正統竹内家」というのがあります。

その「正統竹内家」にも先祖伝来の古神道の秘儀と門外不出の口伝による「竹内秘史」があるようなのです。

現在の当主は、古神道本庁統理・第七十三世竹内宿禰 竹内睦泰氏です。
そして、その口伝に興味深い話がありましたので添付します。




もう一つの竹内文書の存在

最近になってやっと、そうした竹内文書の「真の歴史」の部分を、別の角度から分析・研究することもできるようになってきた。もう一つの竹内文書があきらかになってきたからだ。竹内巨麿が公開した竹内文書とは別に、武内宿禰以来の「正統竹内家」とされる南朝小倉宮竹内家に伝わる古神道の秘儀や秘伝があるという。正統竹内家には、門外不出の「秘術口伝」を記録した文書があり、これを「正統竹内文書」、もしくはもう一つの竹内文書などと呼んでいる。巨麿が保持していた竹内文書の原資料ではないかと考える研究家もいる。

現在のところまだ、ほとんど非公開のため、断片的にしか内容はわからない。だが、竹内文書と同様に超古代において天皇家の先祖が世界を支配していたこと、キリストが来日したこと、越中を中心とする王朝が存在したこと−−−など、かなり同じような内容が含まれているという。

とくに興味を引かれるのは、この秘伝・秘術を伝える竹内神道が秘密結社のような存在で、口伝により記録を継承しているということだ。やはりここでも、伝言ゲームではないが、かなり時代とともに竹内文書の原資料を変形していったとみられる。それでも竹内文書が一部改竄される前の「核の部分」、あるいは原日本人の「真の歴史」を知る手がかりになることに違いはない。

この南朝小倉宮竹内家文書を現在継承しているのが、第七三世武内宿禰の称号をもつ竹内睦泰氏だ。本職は予備校を経営する日本史講師だが、十九才のときに南朝小倉宮家祭祀継承者(口伝継承者)に選ばれた。この選ばれ方も変わっていて、竹内家の本家の長男が継承するのではなく、本人の言葉を借りれば「竹内神道の占い」によって選ばれる。睦泰氏の場合は二〇〇年以上も前に、一九六六年に生まれる竹内家の人間が口伝を継承することが決められ、その年に生まれた睦泰氏に白羽の矢が立ったのだという。

睦泰氏の武内宿禰としての役目は、それぞれの口伝を継承する長老から授かった秘術・秘史の口伝を記憶すること、つまり「人間フロッピーディスク」だ。いつごろからそうしているかは部外者の知るところではないが、幾世代にもわたる実に大がかりな仕組みであり、継承方法であるといえる。この分業制度の下で、個々の秘伝や秘術はそれぞれの分家なり本家が分担して継承し、ただ一人武内宿禰に選ばれた者だけが、全体・全部を継承する。しかも竹内神道は、長老や参議により運営されており、睦泰氏は「飾り物の武内宿禰」なのだと話している。

口伝を継承していく中で、竹内睦泰氏は古神道の秘術や秘史に魅せられる一方、「現代に必要な他民族・他宗教との共存や自然との共生は古神道なら解決できると感じ、それを広げていきたいと決意」。閉鎖的な竹内神道とは事実上袂を分かち、古神道本庁を創立して、口伝の一部を公開することにした。秘密結社である竹内神道の運営に携わっていた長老や参議は当然、公開には猛反対、現在も口伝公開をめぐり竹内神道内部で論争が繰り広げられているのだという。

七三世・武内宿禰との一問一答

正統竹内文書の内容とその性格について竹内睦泰氏に話を聞いた。

−−−この口伝継承が始まった経緯は。

原日本人に対する侵略者である武内宿禰が、原日本人からその歴史と秘儀を奪ったのだと思う。原日本人の歴史はおそらく、神代文字で書かれていたのだろう。もともと天皇と古神道とは関係がなかった。それが現在、関連付けられているのは、原日本人の歴史と秘儀を奪ったことと関係があると思う。そうして作られた歴史や秘術を正統竹内家が口伝で継承していった。

−−−原日本人の歴史が改竄されたということか。

そうだ。最初は古神道と天皇を結びつけるという意図も働き、その後も口伝継承していくうちに、伝言ゲームではないが時代とともに改竄されていったと思う。祭主が勝手に改竄・挿入したケースもあったと推察される。それでも原日本人の歴史は正統竹内文書の中に残っている。改竄されたといっても、それがネタ本だからだ。正統竹内文書は茨城に伝わる竹内文書よりもましだが、私自身は偽書だと思う。それでも真実の歴史が含まれているのではないか。

−−−巨麿が公表した竹内文書はニセモノか。

明らかにニセモノだ。巨麿一人ではできないから、酒井勝軍らが改竄を手伝った可能性がある。しかし巨麿の竹内文書も、元となるネタ本があった。それが正統竹内文書だったのではないかと思う。巨麿がどうやってそれを手に入れたのか。あるいは正統竹内文書の一部を盗んだのかもしれない。正統竹内家は南朝の皇子を富山にかくまっていたこともある。富山に竹内家があったのは事実だが、巨麿自身は竹内家とは関係のない人物だった。私は巨麿はサンカの出身だったのではないかと思っている。だから神代文字の中のサンカ文字は読めたのだ。

−−−正統竹内文書も偽書であるとする根拠は。

やはりキリストが来日したとか、神々が宇宙から来たとか、日本が世界の中心だとか、ストーリーが荒唐無稽だということだ。もちろん、それらが真実であった可能性もある。そうでなければ、秘授口伝をめぐり殺されたりすることもなかったろう。正統竹内家の秘伝には、あくまでも門外不出だった。しかも口伝でなければならず、文書化することも禁じられた。平群真鳥は、それを文に残そうとして殺されたのだ。戦国時代の竹内季治も織田信長を中傷したことや反キリスト教運動をしたことなどの理由で、見せしめのため信長に殺されたが、その背景には正統竹内文書をめぐる戦いがあったとされている。竹内神道は門外不出で、口伝自体がご神体といっても過言ではない。

私がそうした正統竹内文書を公開しようと思ったのは、たとえ偽書であっても、偽書を悪と決めつける風潮が許せなかったからだ。偽書の中にも歴史推理のヒントは含まれている。『古事記』だって似たようなものではないか。

−−−キリストの来日は、正統竹内文書ではなんといわれているのか。

茨城(巨麿)の竹内文書では、キリスト来日の時期を垂仁天皇のころにしているが、正統竹内文書では神武天皇のころとなっている。キリストは五十鈴彦または伊勢津彦と名乗り、八戸を越え蝦夷地に入り、さらに東へ進んだことになっている。弟は伊須気余理彦または石切彦という名前で、茨城の竹内文書に出てくるイスキリと似ている。こうしたキリスト伝承はおそらく、後南朝と結びついた竹内神道が、修検道や密教を取り込みながら山から山へ移り住むうちに隠れキリシタンと合流したため、キリスト伝説が口伝に入り込んだのではないかと思う。


大和族と出雲族の争いと和睦


−−−ほかに巨麿の竹内文書と違うところは。

根本的に違う部分はたくさんある。口伝では一万二〇〇〇年前に世界中で大洪水があった。その洪水の後、最初に文明が開けたのは日本だった。日本の縄文文化は世界最古の文明だった。その文化は八〇〇〇年前に中国に伝わった。五〇〇〇年前には、欧州にも伝わった。その中でいつのころかわからないが、太陽信仰を持つグループである日本のスメル(天皇)族が、沈んでいく太陽を追いかけるようにアジア大陸に渡ったのだ。おそらく太陽の沈む彼方に理想郷があると思ったのだろう。そのグループは二つあり、それぞれ朝鮮半島と南洋を経由して西を目指した。その二つのスメル族のグループはメソポタミアで再び合流した。ところがメソポタミアまで来たものの、どうもそこには理想郷はなかったことに気づいた。
スメル族のグループは、シュメール人と呼ばれた。彼らは古神道に通じていたが、本来古神道とは自然と調和して生きる術、自然の力を利用する術であった。ところが砂漠の地方では、自然は人間に敵対するものでしかなかった。古神道の考えとは合わなかったわけだ。

失望したスメル族は二手に分かれて、つまり自分たちが来た道を通って再び日本に戻ることにした。インドネシアなど南方のルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸、彼らは大和族(日向族)と呼ばれた。彼らは海を下ったので(天降った)と言い換えられた。一方、陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出、彼らは出雲族と呼ばれた。

彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海側を海路東進し、奈良に入った。出雲族のスサノオは、越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後、出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが、それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。

その間、出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち、二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後、和睦が結ばれ、出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に、再び戦争となり、出雲族は大和族に敗退する。その結果、当時の大和族の主である神武は、事代主の娘を娶り、ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後五〇年ごろの話だ。こうした歴史と、越の国などに伝わっていた原日本人の記録と秘術が合体して、口伝ができたと考えられる。

−−−洪水以前の話は口伝にはないのか。

あるが、公開できない部分が多い。触りだけ話すと、太古の昔に神々は宇宙からやって来たことになっている。いつごろのことか不明だ。どこから来たのかについては三つの説がある。私自身は三つも説があるのはおかしいと思うが、北極星説、スバル説、オリオンの三つ星説だ。

−−−降臨した神々と人類との関係は。

当時、地球には原人がいたが、現代の人間は彼らが進化したとは思われない。黄色人種が世界に散らばり、白人になったり、黒人になったりしたのではないか。少なくても日本から世界各地に散らばり、都を築いていったのだと思う。口伝では都をアスカと名付けたとある。アラスカやナスカはその名残だと思う。

−−−ヒヒイロカネの口述もあるか。

ある。おそらく赤色の金属だったのではないか。

−−−キリスト以外の聖人の来日については。

孔子、溥儀、釈迦が来日したことになっている。マホメットの来日についての口伝はない。

−−−竹内文書にみられるような近代の地名はやはり伝えられているのか。

サンフランシスコやボストンなどの記述はない。唯一あるのは、大山阿夫利神社でも知られるアフリという名だが、この由来は雨降りだと思っている。

以上が竹内睦泰氏との二時間にわたるインタビューの概要だ。口伝のどこまで信じるかは読者の自由である。ここでは私もあえてコメントをしないでおこう。ただこうした口伝からも、北陸に、そしておそらく飛騨にかけて原日本人の文明が超古代に栄えていたことがうかがえる。原日本人の歴史を武内宿禰が奪ったというのも、金井南龍の「平群真鳥盗用説」とほぼ合致する。また、天皇(スメル族)は日本でなく大陸に渡ったという説も引かれる。そういう説ならば、竹内文書がよく批判の対象となる思想、つまり日本の天皇は世界を統治していたとする超国粋主義的な考えから、少し距離を置くことができるからだ。

もちろん、睦泰氏が継承した正統竹内文書は、本人も認めているように原日本人の歴史を改竄したという点から偽書ではあるのだろう。その後も改竄が重ねられたのかもしれない。(睦泰氏は口伝を正統竹内家の長老たちから継承しただけであるから、仮に偽書だとしても悪意や罪があるわけではない)しかし偽書であっても、巨麿の竹内文書を口伝と併せて研究すれば、竹内文書に隠された真実の秘史の部分が浮き彫りになってくるのではないだろうか。

「竹内文書の謎を解く」 布施泰和


神道における秘授口伝の一形態
(竹内睦泰 古神道本庁統理・第七十三世武内宿禰)

いわゆる『竹内文書』について

一般に『竹内文書』といえば、竹内巨麿の保持していたという文書・神宝類をさす。しかし、その内容は古墳時代の人物である武内宿禰が、飛行船に乗って世界一周旅行をしたり、紀元0年前後のキリストが、垂仁天皇の時代(三世紀ごろ)に来日したりと、SF小説としてはおもしろいが、かなり無理がある。もっともまったく原型がなかったわけではない。そこに古史古伝のむずかしさがある。なぜ作られたか、どのようにして誰が作ったかを判断する際には、その時々の時代を考えながら社会学的なアプローチが必要である。
しかし、竹内巨麿の揚げる系図は、信用出来ない。生年の年号を西暦に改めると、親よりも先に生まれた子供が何人もいる。兄弟関係は系図に記されている通りだろうが、間違いなく親子関係において矛盾がある。どうせならもっとましな系図を作ればいいのにと思ってしまう。
もっとも巨麿自身は竹内家の血はまったく入っていない。というのは、巨麿が養子なのは周知の事実だが、巨麿を養子にした養祖父・下西庄二郎自身も竹内家に養子に入った人である。巨麿自身も気が引けたと見えて、別名を『宿根』としており、「竹内宿禰」とは名乗っていない。どうも、養子というのは劣等感の裏返しなのか、自家の家系を誇る傾向にある。南朝天皇を名乗った熊沢寛道も実は養子だった。この二人に共通する養子と貴種への憧憬の関連性については、いずれ心理学的考査を行いたい。会えれば良かったのだが、私の生まれた年に、南朝の養子寛道と竹内家の養子・巨麿は死んだ。
正統竹内家(正統竹内神道管長職家)は、この南朝および竹内家(竹内宿禰)の正統である。もちろん巨麿の茨城竹内家とはなんの関係もない。しかし、正統竹内家に伝わる口伝の内容と『竹内文書』の内容に、ある程度の類似性が見られることから、巨麿もしくはその周辺の人物が、正統竹内家口伝を一部知っていた可能性がある。
正統竹内家の墓守に大伴部真麻呂と宿禰麻呂がいる。彼らは桓武天皇の延暦十一年(七九二)に、陸奥国俘囚の身から、祭主の留守を守る宮守兼竹内家の墓守に採用された。そして射水郡二上山にある武内宿禰の墓を守るため居住した所が伴郷と呼ばれる地名となったという。この二人の子孫が代々墓守をしていたのだが、茨城竹内家の先祖に大伴部仲麻呂という人物がいる。何か関係があるのかもしれない。
また、福島日吉神社から盗まれた宝物や、斉藤慈教の持ち出した南朝の宝物がなぜか茨城竹内家にあるので、正統竹内家の墓から盗まれた物をどこかで買い取った可能性がある。というのは巨麿は信者には宇多源氏の庭田大納言の四男と自称しておきながら、特高の取り調べでは清和源氏の竹内惟治の子孫と名乗る。のちの巨麿の自伝『デハ話ソウ』でも惟治の子孫と名乗る。しかし、茨城竹内家の系図には惟治の名前はない。自伝では季治は弟で、時代は南北朝時代になっているが、正統竹内家の先祖の竹内季治は、安土桃山時代の人物で、織田信長に殺された公卿である。
この人物は重要文化財「久我家文書」にも載っているので、南北朝時代の人物でないことは確かだ。なお江戸末期に盗まれた正統竹内家の系図には生没年が入っていないので、時代を間違えた可能性がある。もちろん正統竹内家の墓から古文書・神宝類を盗み出した人物は巨麿ではない。年齢的に巨麿が盗むことは不可能だし、巨麿は越中国婦負郡から掘り起こしたと言っている。正統竹内家では越中国射水郡二上山に埋めていた。謎は深まるばかりだ。しかし、大正元年の時点で巨麿が『竹内文書』について何も知らなかった可能性は、大正元年に出した自分の伝記に一言も竹内宿禰や『竹内文書』が登場しないことからみてきわめて高い。

正統竹内家について

正統竹内家に伝わる口伝は、門外不出の極秘口伝であり、一般には非公開であるため、ごく一部の人々しかその存在を知らないし、内容にいたっては、秘密神道の性質上、歴代の武内宿禰とその周辺の長老・参議・蔵人クラスの幹部にしか伝授されていない。秘密神道になった理由としては、古神道の秘儀と南朝の血脈を受け伝えていることが大きい。

◎神宮の成立
現在、社殿はないが「幽斎」で祭祀を執行している社に「皇祖之霊皇大神宮」がある。口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。

以下、正統竹内家と神宮の歴史について語ろう。

二代祭主は神八井耳命で皇位を弟を譲って、自らは祭主となった。もっともこの当時は「統治王」よりも「祭祀王」のほうが上席であったと伝えられる。

三代祭主は研耳命で、「記紀」では神武天皇の皇子となっているが、実は手研耳命の皇子である。父が逆賊の汚名をきたため系図を祖父につなげたらしい。

以後、天皇の近親者によって祭祀は執行されてきたが、景行天皇の時代に詔によって、十一代祭主・屋主武雄心命の子孫が、代々祭主を世襲することになった。

◎武雄心命の子供が第一世竹内宿禰である。これは建内宿禰や武内宿禰と書くのが正式だが、鎌倉時代のときより竹内宿禰に書き替えたらしい。歴代の祭主が竹内宿禰の霊を受け継ぐ「霊嗣の儀式」を執行するので、祭主の世襲の称号となった。
「記紀」に載っている武内宿禰は、この第一世から第五世竹内宿禰の実績をつなげたものである。

◎以後、第六世が若子宿禰(允恭天皇と同一人物との口伝あり)。七世が大臣・平群都久宿禰。八世が大臣・平群真鳥宿禰である。
この真鳥の時に、平群氏は自分の家に群臣を招集して政治を行っていた。しかし、大伴氏の陰謀により失脚する。この時に古神道の秘儀以外の歴史についての口伝を漢字で筆録したのは事実らしい。しかし、御神符など以外は、この時すべて漢字で書かれたため、神代文字で本文が伝わることはありえない。
 

  

◎竹内家の武術と医術

平群氏が復権したのは第十三世の平群神手の時で、物部守屋追討の際に将軍として前線で戦った。その功労で復権して、のち小徳紫冠を授かっている。この人の武術は第一世・武内宿禰伝来の秘術で、戦う前に手を塩をつけて清めることから塩手法ともいう。古代の相撲の原型らしい。一撃必殺の「武撃ち」という。青竹を素手で僕ち折り、鎧の上から打撃を与えただけで敵が死ぬほどの秘技をあみだした。
古代の豪族は自家独自の神道・歴史・武術・医術を伝来していたそうで、竹内家にはほかに、医術の「真手法」と「骨法」が伝わっていた。骨法は武術ではないのだが、人間の急所を熟知したうえでの技なので殺人にも使われたらしい。本来は医術である。竹内家ではのちの豊治のときに分かれた家に、柔術の竹内流宗家がある。

◎歴史書編纂

第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された『日本書紀』の編集で、臣姓伝承編集を担当した。連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため、再び没落する。頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。

◎平群氏から源氏へ

頼義には出家前に子供がいて、その孫の平群義宗の時に男子が絶えたため、娘を清和天皇八代孫の大内義信に嫁がせて武内宿禰の血を伝えた。
彼は武蔵守兼守護として善政を施し、将軍・源頼朝より全国の模範とされたが、孫の伊勢伊賀守護・大内惟信は、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため失脚した。幸い、子の惟時が宗尊親王の側近となったので復権した。しかし、それ以後は京都の方で公家として暮らすという変わった経歴だ。

◎南朝との関係

第四十八世・竹内仲治の時に、後醍醐天皇より山城国に築城せよとの綸旨を賜った。これは重要文化財「久我家文書」にも残っている。この頃から南朝と北朝の両方に仕えることとなるが、かなり貧乏だったらしく「久我家文書」には第五十二世・竹内為治の借用状が残っている。このころに南北朝は合一したのだが、竹内家では南朝の皇子をかくまっており、南朝より代々従三位を授かっている。また、北朝からは代々、大膳大夫と近江守を授かっている。

◎戦国期の竹内家

第五十六世武内季治の時に、将軍・足利義輝の執奏により、堂上公卿の席に列した。これは妻が義輝の乳母だったらしく、親しい関係にあったためで、義輝が京都から逃亡するときに、近江が多いのもその関係らしい。義輝が死んだ二年後の同じ日に出家した。彼は一時期、三好長慶・松永久秀らと組み、京都を法華宗のリーダーとして牛耳っていたことがある。
季治は題目を唱えるときに、神道の言霊を利用したため、妙音を発して尊敬されたらしい。息子の長治の妻に松永久秀の娘を迎えたのも法華信仰のネットワークからだ。しかし、義輝はキリスト教に布教を許してしまった。季治にとってキリスト教は真っ向から対立する宗教である。彼は同じく、布教を許可した織田信長にもくってかかり、言が入れられないと将軍・足利義輝に「信長は熟したイチジクだ。いずれは地上に落下する」と讒言を叩きつけた。これを信長が知り、季治は近江の永原で処刑された。季治は息子の刑部卿・竹内長治と絶縁している。そのため二女を、かくまっていた後南朝の皇子に嫁がせて血を残した。第六十世越中宮惟治王改め竹内惟治である。(実際は小倉宮良泰親王の子孫)
この時に南朝に伝わっていた神道の秘儀や秘史も竹内家に導入された。有名なのが「真床男衾之行法」である。これは現在の北朝の天皇家には伝わっていないらしい。しかし、竹内家は戦国の世の常で没落して神主となり、のちには百姓にまで衰退した。

◎文書の盗難

江戸時代には代々、竹内三郎太郎を名乗り世襲した。その時に、越中国射水郡二上山の武内宿禰の墓に隠していた御神宝をつかって「霊嗣の儀式」を執行していたが、江戸の最末期に、何者かによって盗掘されてしまった。その為第七十二世の子供はショックで跡を継がず、明治初期の戸籍名も通称の三太郎とした。のちに近くの土地で御神宝らしきものが売られていたと噂で聞いたが、あとの祭であった。
当時はよく神社や古墳の盗品が骨董屋に出回ったらしい。家紋も、越中の民謡「三才踊り」に「かたばみ紋に菊宿る」と唄われた「菊浮線綾に剣片喰」から菊をとり、ただの「剣片喰」になった。南朝摂政宮竹内家の家紋は「四つ割菊に葉付き紋」で、現在はこれを使用している。この竹内神道の秘密の門人達の子孫が私に竹内神道を伝えてくれたのである。三太郎は私の曾祖父にあたる。

◎現代に甦る古神道

竹内神道は秘密神道で、内容はおろか信者の名前まで非公開なので、私も表に出るつもりはなかったが、古神道を学んでいるうちに、秘儀はともかく、その思想は広く人々に伝えるべきではないかと思うようになった。
古神道には現在人類にとってもっとも必要と思われる「自然との共存」を可能にし、他の宗教・人種・民族とも共存出来る「和」の思想がある。これを伝えたい。そう考え「古神道本庁」設立した。祭神は「天神地祗八百万神」である。


正統竹内家極秘口伝について

極秘口伝である以上、一般には公開していないのだが、ごく一部の内容を研究者に語ったところ、それが本や雑誌に載ったことがある。しかし、そもそも大半は古神道の秘儀なので別に面白くもないのだが、「雑伝」と言われる、あまり祭主が信用していない口伝には確かに「キリスト伝説」なと興味深いものもある。
ただし、茨城竹内文書の伝える垂仁朝ではなく、神武天皇の時代である。日本に神道の修行にきたわけでもなく、太陽の上る方角に、つまり東へ東へと向かって日本についたらしい。もっともこの太陽に向かって日本にきたというのは、天孫族来日の口伝にもある。とりあえずキリストの日本名は五十鈴彦というらしい。茨城は八戸太郎天空と名乗ったとしているが、西暦0年ごろの日本で、そんな名前はありえない。弟の名前は伊須気余里彦で、兄弟ともに神武天皇の妻の名前をもらったらしい。一応、父の名前が「世聖父」で、母の名前が「真理」なのも、信じがたいが記しておこう。キリストはその後、さらに東へ向かったという(位置的にはアメリカ大陸だ)。
この話は、どうみても明治時代、古くてもいいところ戦国時代に作られた話と思われるので「雑伝」になっている。しかし、先祖から伝わる口伝を、勝手に削除するわけにいかないので伝えてはいる。

◎口伝についての一考察

口伝の信憑性については史料批判以前の問題なのだが、家や、宗教教団に伝わる口伝はそれが事実であるかどうかよりも、そういういい伝えによって家や教団が成り立ってきたということが重要なのであり、宗教や神社に伝わる口伝はそれ自体が信仰の対象になることが多い。
口伝は論文を書くときの論拠にできないのだが、ヒントにはなる。エスキモーもマンモスの記憶を口伝で伝えてきたのだし、『古事記』『日本書紀』も口伝を編集したものだ。
そういう意味では、今のうちに口伝を編纂しておかないと、絶えてしまうおそれがある。「雑伝」レベルのものは、いずれ時間ができたら文章にまとめておきたいと考えている。これは現代版の『扶桑略記』『水鏡』にできるかもしれないと期待している。
今のところ神武天皇以降を簡単にまとめて、信者や一部の研究者に公開している。これが「正統竹内神道管長職家文書」(略称・正統竹内文書)〔人の巻〕の一部である。「竹内家秘史系譜略解」である。これの研究者としては日本歴史研究所から『竹内宿禰と詠う神人たちの詩』などが出版されている。
竹内家の雑伝には、このほか日本ユダヤ同祖説ならぬ世界同祖説や、ピラミッドに関する口伝、前方後円墳の形についての口伝や、宇宙の創造にいたるまで様々な口伝が伝わっている。

◎予言について

また、歴代の祭主のなかに予言を残す人々が何人かおり、この予言の中に、
「日本は世界の雛形である。日本が世界の模範となって神政復古を実現した時、争いのない世の中、高天原が顕世に顕現する」といった内容の外八州内八州観的なものがある。
ほかにも「日本を外国の手先が八つに分けようとする企みがおこる」という岡本天明の「日月神示」とよく似たものがあるが、これは「道州制」のことだろう。とすれば外国の手先とは誰のことかと勝手に想像したり、なかなか楽しませてもらえる。
予言といえば、大本の出口王仁三郎の「今の竹内文書は、わしが神様から聞いたのとは少し違う」という言葉が残されているが、王仁三郎の知っていた竹内文書とは、おそらく正統竹内文書のことであろう。


竹内家口伝の分類

正統竹内家の口伝は、基本的に大きく、いくつかの系統の伝承に分類できる。

●アニミズムそのままの太陽崇拝などの自然崇拝の伝承。

●国津神系伝承と古神道の行法(天皇家の先祖は日本を征服すると同時に、国津神系の神道の秘儀を奪った)

●ニニギ命の妻=大山津見神の娘・木之花咲夜姫の時と、後醍醐天皇についた山民の伝承

●彦火火出見命の妻=大錦津見命の娘・豊玉姫の時と神功皇后の三韓征伐の時に武内宿禰に従った阿曇一族の海民伝承。

●神武天皇の妻=事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴姫の時の出雲系伝承。

●屋主武雄心命の時の紀伊国に伝わる南洋系伝承。

●武内宿禰の時に、審神法・禊法・盟神探湯などの、古神道の秘儀を整理。

以後、平群子首が臣姓諸豪族の口伝を集めて、『日本書記』に入れられなかったものを、子孫に伝えた。この時に、連姓伝承で採用されなかった大伴氏伝承・物部氏伝承・忌部氏伝承などが一部伝わった。
平群安麻呂(当時、尾張守)の時に風土記編纂の命令がきたので、尾張氏の伝承を伝える。これはのち熱田大宮司家に藤原氏より竹内季範が入るときに、伝授している。また、平群清幹以後三代のときに東国の伝承が集められた。
竹内季治の時に法華神道が導入され、後醍醐天皇の子孫・惟治の時に南朝伝承と天皇家の神道の秘儀、そして真言密教が伝わる。
江戸時代は浄土宗だったらしく、浄土信仰の変わった神道説が伝わっている。

浄土神道
南朝天皇=阿弥陀如来=転輪聖王
武内宿禰=大勢至菩薩=都市王


といった具合だ。

古神道の可能性

しかし、やはり古神道の秘儀こそ、正統竹内家極秘口伝の、というより日本の最高機密といえる。これは細々と陰で信者に伝えているので、断絶することはない。
なぜ公開しないかといえば、やはり、いい加減な気持ちで取り組む人物に伝授すると、本来の意味を取り違えてしまうことがあるからだ。
「死と再生」の秘儀に至る「神髄の道」は険しいものである。ほんのわずかな迷いが、命取りになることがある。
また、竹内神道が、極めて秘密性の強い教団だからである。現在でも正統竹内家当主は「霊嗣の儀式」を執行した後、古神道宗家「武内宿禰」の称号とともに「南朝小倉宮家」も継いで、いまや有名無実の、というより無名無実の「吉野朝廷」摂政宮祭祀王に就任する。これははっきりいって人には言えない。会員にしても普段はただのサラリーマンが南朝忠臣の子孫ということで「武蔵守」(もちろん実益はない)になったりする。家族にも隠している人が多い。
この竹内神道の教典と言えるのが「正統竹内文書」である。危険な人物と思われないためか秘密会員が大半である。そのため「古神道」の秘密結社といったものになってしまった。そういう意味で逆に「古神道本庁」は開放的な明るい団体にしたいと思っている。
古神道にこそ、現在の人類にとって、もっとも必要な「自然との共存」、他の民族・人種・宗教との共存を可能ならしめる思想が含まれているのである。この思想を広く世界に広げたい。
古神道本庁の「神道ルネッサンス」運動により、民族宗教「神道」は、世界宗教の根源たる「古神道」に甦る。

「古史古伝の謎」新人物往来社


足利尊氏は吉野を落ちられた後醍醐上皇を殺害した

足利尊氏は後醍醐上皇が吉野宮から脱出されたのを知り全国に命じて上皇の殺害を命じた。

「太平記」は後醍醐天皇が後村上天皇に譲位され吉野宮で崩御された様に伝えているが、実際は僧侶達に金を与え、天皇が崩御されたという風評を流しても吉野を脱出されたのである。

勿論この様な風評がばれぬはずもなく、やがて足利尊氏の下に事実が伝えられると、彼の命令によって後醍醐上皇は苦難の末、逆賊の僧侶のために傷つけられ遂に崩ぜられてしまった。

当時の生々しい事件は後醍醐上皇にお供をした皇祖皇太神宮神主家の竹内惟光と竹内惟眞の両名によって、興国五年九月十六日後醍醐天皇崩御の三年祭の記録として残されている。

本章では、これまで美化されてきた足利尊氏の知らざる逆心の一端を示すため、記録の内容を詳しく公開したいと思う。

●後醍醐上皇は御年五十二歳の時延元四年八月十六日の夜丑の刻に、吉野御殿を立って、越中の国にある皇祖皇太神宮別祖太神宮を指して落ちて行かれた。

その時神宮からお迎えのため参内したのが神宮神主家の竹内惟光と子の惟眞の両名であったが、上皇が吉野御殿を出られる時は御箱の中に入っておられたという。

●御一行は伊勢国、近江国、越前国、加賀国を経て越中国婦負郡の皇祖皇太神宮神主竹内惟眞の妻(後醍醐天皇の御子良子内親王)の宅へ延元四年十一月十日夜到着された。

翌興国元年三月十一日朝方神勅があって「今より先の代六百年(昭和十五年)に五色人の大変(世界大戦)となり天下統一の代になる」とお示しになる。

また、竹内家普代の家老桃井直常が変心して足利尊氏に従ったから、翌年の興国元年八月十七日惟光宅を朝寅の刻に御出立され常陸国に向かわれた。

この時上皇をお守りするため、万里小路藤房、万里小路季房、竹内惟光、竹内惟眞、竹内信治その他竹内家一族親子兄弟と家臣および新田氏、楠木氏の一族合わせて三百二十一名が、皆敵を欺くために名を変え、上皇の前後二十里の問を敵に隠れて思い思いの変装をして潜行したという。

上皇は四日後の二十一日に越後国岩室に着かれた。二十三日に弥彦山に登られたが、新潟に敵が居るため通ることが出来ず引き返して二十五日見附に着かれた。

しかし、上杉民部憲顕のため大難に遇い、二十九日上皇の御身代わりとなって踏みとどまった竹内越中元助、菊地新左衛門を大将とする十八名が討死した。

この時竹内惟光は敵の大将長尾三郎由景を切り殺し、上皇を負って落ちて行かれた。

●上皇は翌九月五日越後国六日町で大難に遇われた。この時、竹内二郎左衛門以下五名は足利方の僧侶狩野祐眞その他八十一名と戦って祐眞外四十八名を斬殺して自害した。

同月二十二日信濃国切明で足利方の小笠原貞宗の兵と戦って宗佐右馬頭以下五名が討死した。

十月三日上毛野国長野原で里見民部小輔義宗のために大難に遇い、上皇は箱の中に入ってお逃れになった。この時、敵と戦って討死した者は倉光三郎以下十二名。

●上皇は十一月六日軽井沢を通り妙義山に籠られたが興国二年正月十日に御出山。時に雪崩れに遇い大友左近以下六名死んだ。竹内惟光以下四名は上皇を負い奉り各間を通って磯部村の大郎左衛門方に御臨幸された。

同月十四日山賊に出会い石黒十右衛門と井上三左衛門が戦い負傷のため越中に帰って自害した。

上皇は二月四日武蔵国武甲山に籠られたが、二月十三日大難に遇い、高師直の兵と戦って竹内惟治以下二十九名が討死した。

これは、藤房季房公が敵に発見されたための大難であったという。

●上皇は二月二十五日武蔵国多摩郡吉野に着かれたが、二十九日敵海老名尾張六郎秀直のために大難に遇われ、高楯三郎以下四名が討死した。

三月五日甲斐国都留郡吉野で、武田信武のために大難に遇われ討死する者が若槻太左衛門以下十九名あった。

三月十三日武蔵国入間川で大難に遇われ、高師直の兵と戦って福光太郎左衛門以下十三名討死した。

五月五日相模国萩野で大難に遇われ、波多野宣道の兵と戦って岡崎藤十郎以下十一名討死した。

●上皇は五月二十日武蔵国萩窪で僧侶のため大難に遇われ、竹内太六郎以下十二名討死した。

五月二十五日下総国稲毛で大難に遇われ、千葉介貞胤の兵と戦って諏訪三郎左衛門以下九名討死した。

六月四日下毛野国藤岡で僧侶六十七名のため大難に遇われ、滋野行義以下五名討死した。

六月十六日下毛野国日向で大難に遇われ、里見義原の兵と戦って世良田大膳以下五名討死した。

七月三日下毛野国の民家で大難に遇われ、大館幸氏の兵と戦って粕谷十郎以下十名討死した。

この時敵兵を九十三名殺したという。
七月二十二日常陸国那珂郡長倉で大難に遇われ、佐竹貞義の兵と戦い高倉清信以下五名討死した。

なお、この時藤房季房公那珂において上皇と分かれて別行動となる。

●上皇は八月二十九日常陸国の少里より石岡の問において大難に遭われ、深須入道外四十二人と戦って上皇がお傷を受けられ病の床に臥せられた。

詔によって竹内惟光と惟眞は勅使となり、勿来の関の下にある皇祖皇太神宮の分霊殿へ大祈願を行い、上皇の痛む所の平癒を祈り奉った。

九月六日二度目の勅使を立てられ百三十七名→同で祈願をした。

九月十六日後醍醐上皇は遂に御年五十四歳で崩ぜられた。

その日、惟光惟眞の命令により竹内惟定は深須入道外九名の僧侶を切殺し、上皇にお供をしていた者はことごとく自害して果てた。この後、竹内惟光と惟眞は上皇の御神霊とお供の者の御魂を祭るため残ることになった。

興国五年九月十六日三ヶ年祭の時、皇祖皇太神宮境内に後醍醐上皇の大神宮を造営し、御神霊と上皇のために討死あるいは自害した者三百二十一名の御魂を祭り、当時の詳細な記録をとどめて後醍醐太神宮の秘蔵とした。

以上に記された後醍醐上皇の大難の数々は足利尊氏の命令によるもので、上皇のお供の者が尊氏の側近高師直の兵と直接戦っていることで証明される。

尊氏の性格は二重人格者で、宗教のマインドコントロールにより一面やさしく反面狂暴性を発揮した。

だから当時の武将達には人格高潔な姿として現われたが、「天皇否定の宗教」の霊的指令に従った時は、天皇を滅ぼすための悪魔となって狂弄していたのである。

「後醍醐天皇」 竹田日恵 著より