古史古伝 竹内文書の謎 新宗教と古史古伝 古史古伝に共通する大本の強烈・異質な神話体系
幽閉された岡田茂吉のイマジネーション世界 驚異の解き明かしが始まる 巨麿の判決で証明された『竹内文書』の真相! 『竹内文書』の偽書論
楠木正成は皇祖皇太神宮神主家の分流であった

古史古伝・・・古事記以前の書

古史古伝とは、神代を歴史的叙述の対象とし、神代文字に関する伝承を有する古文献と称されるもので、多くは没落した民族の伝承と伝えられ、アカデミズムに史料的価値を認められない共通性がある。

上記(うえつふみ)

序文によると1223年に豊後太守大友能直父子ら七名によって編纂されたもの。天保初年に豊後の国学者・幸松葉枝尺(さきまつはえさか)によって発見され、明治以降流布した。伝本には宗像家に伝わった「宗像本」と、明治六年に発見された「大友本」がある。明治十年に吉良義風により『上記鈔訳』が出版されている。
神代から神武天皇までの歴史が豊国新字という神代文字で記されいる。特色は、『古事記』との関連が著しいが、『古事記』より詳細な記述も多く、説話に女権的色彩が濃い。

ニニギに先立ちスサノオに始まる出雲七代の歴史が記されている。
神武以前にウガヤフキアエズノミコトを世襲する七二代の継続王朝を介在させること
などである。
このウガヤフキアエズ王朝について、田中勝也氏は、七百年もの間変化のない王号をもって同一の地に実質的な世俗王権が続く可能性は小さいとしている。
また、豊国新字は山窩(さんか)文字との類似が指摘されており、『上記』は明治初期の九州の山窩が作ったという説がある。
序文は偽作という見方がされているが、本文が文体・用語の面で記紀・『万葉集』の時代でさえ死語となっていたような語彙が使われているなど、『上記』の価値は定まっていない。
吉良氏の『上記鈔訳』が、ウガヤフキアエズ王朝を記す他の古史古伝(『竹内文書』『九鬼文書』『富士古文献』など)に影響を与えたと言われている。


竹内文書



武内宿禰の孫の平群真鳥が、雄略天皇の命により神代文字を翻訳した原本の写しと、皇祖皇太神社由来の神宝類を含む資料の総称。平群真鳥は、武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠遁してこれらを庇護したという。竹内家の養子である巨麿は明治四三年に天津教を開き、大正末から昭和初期に『竹内文書』を公表した。その後不敬罪で起訴され、狩野亨吉氏の文献批判によって偽書と断じられた。
内容は原始神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡を伝える。<br>
世界的、壮大なスケールの記述が多く、世界には五色人が存在し、みな日本から発したこと。モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などが来日して教えを学んだこと。ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。
また、太平洋にある「ミヨイ」「タミアラ」という謎の大陸の滅亡に関する記述があり、オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。
『竹内文書』もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が『上記鈔訳』と非常に類似している。もともとの『上記』の原文が漢字ではないことを考えれば、『竹内文書』は『上記鈔訳』に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである。
明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、『竹内文書』は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。 <br>
尚、現在公開している竹内文書は、当時の関係者が写し取っていた資料をまとめたものである。原本は裁判のために押収されていたが、裁判で無罪になった後でも変換されずに、東京大空襲で消失してしまったためである。

秀真伝(ほつまつたえ)

三輪季聡(すえとし)が大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、景行朝に朝廷に献じたもの。季聡は大田田根子であるとする。
大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の三尾神社に奉納され、その写本が天保年間に小笠原通当によって書写され、以来小笠原家に伝えられてきたものを、松本善之助氏が公開した。
全文が秀真文字で書かれた五七調の叙事詩で、特徴は、記紀のアマテラスが男神アマテルとして語られる。
宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされ、古代インドの宇宙観と一致する。
イサナミがアマテルを産んだ際に嬰児は胎衣に包まれて卵のように見えたとあり、朝鮮の建国神話に見られる卵生説話を連想させる。
高天原は日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする。
天孫降臨はニギハヤヒとニニギの二度あったとすること、などである。
また、天祖・国常立の八人の子(八御子神)の最初の文字を順に読んでいくと「とほかみえひため」となる。神道の唱言に「とほかみえみため」というものがあり、意味不明とされてきたが、これは「とほかみえひため」の誤伝で、八御子神の偉業をたたえる呪言であるという。
『秀真伝』は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であること。また漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章とが思えないこと。序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ていること。「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくること。秀真文字による花押が存在するが、花押は九五〇年以降に登場すること。秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され、五十音図の存在を前提とするものであるため、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくいこと、などから偽書であるとされている。

宮下文書(富士文献)

秦の方士徐福が八五隻の大船団を率いて渡来し、紀州熊野に到着した。その後富士山麓に土着し、阿祖山太神宮に伝わる伝承を編纂した。この『徐福伝』を原本とし、度重なる書写と編集を経たものという。阿祖山太神宮の宮司である宮下家に伝えられていたが、噴火や火災によって殆どが失われ、残ったものが明治になって封を解かれ、大正十年に三輪義X(よしひろ)が整理・編集し『神王紀』として出版した。
多くの伝承が混交しており、文書同士の矛盾も多いが、富士山こそ蓬莱山であり、高天原が富士山麓にあったとする主張は全編を貫いている。
日本の神々はもともと大陸で発祥し、高皇産霊神が初めて東方進出を志し、子の国狭槌尊とともに富士山麓に都を置いた。高皇産霊神の死後、国狭槌尊は先遣隊を率いて先に日本列島に来ていた兄・国常立尊と再会し、日本列島を分割統治したとする。
また、三貴子としてスサノオのかわりにヒルコが登場し、スサノオはアマテラスと対抗して皇位継承を要求する乱暴者とされている点も特徴である。
『宮下文書』も『竹内文書』同様、ウガヤ王朝の記述が『上記』と符号し、また木花咲耶姫尊の悲劇的な説話が『ラーマーヤナ』と酷似するなど問題点は多いが、古史古伝のなかで唯一原本の影印版が刊行されており、今後の研究が待たれる。

九鬼(くかみ)文書

九鬼家の遠祖で天児屋根命(あるあめのこやねのみこと)の時代に記録された神代文字の原文を藤原不比等が漢字に書き改めたもので、丹後綾部の九鬼氏が保管してきたという。天児屋根命は、記紀では皇孫邇邇芸能命(ににぎのみこと)に従って高天原から高千穂に降り立った天津神の一人とされる神である。
この文書の本来の性格は、九鬼神道の教義であり、神代史はその一部にすぎないが、その内容の一番の特徴は出雲王朝を正統としていることである。万国の首都である高天原は出雲の地にあり、スサノオの系譜に現在の天皇が繋がるとされているのである。
また物部氏滅亡の際に、「あめつちのことふみ天地言文」の写しが、守屋一族、大中臣一族、春日一族、越前の武内一族によって保存されたいう、古史古伝の伝存に関わる記述がある。
日本とユダヤの交流を記している点でも異色で、この文書の公開を働きかけ、『九鬼文書の研究』を書いた三浦一郎は日ユ同祖論者として知られていた。<br>
『九鬼文書』は『竹内文書』の影響が強いと指摘され、出現経緯や内容・表現から見て、近代以降の成立である事は明らかである。また綾部の大本教との関係が深いともされる。

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)

三春藩藩主秋田孝季が藩史編纂のため妹婿の和田長三郎の協力を得て収集した史料を編纂したもの。和田家で代々書写して伝えてきたもので、昭和22年に和田喜八郎氏の天井裏から箱ごと落下して発見されたという。
内容は古代津軽の民・荒吐族の国家と大和朝廷の抗争の歴史、及び荒吐族の末裔である安倍氏・安東氏・秋田氏の活躍と没落である。
荒吐族とは、アソベ族・ツボケ族など縄文人を思わせる先住民、神武東征によって邪馬台国を追われた安日彦・長髄彦兄弟の一族、中国系渡来民の混成によって成立した民族であり、いわゆる蝦夷の主力だという。
その真贋をめぐり世間の耳目を集めたが、編纂者と発見者の筆跡や誤字が一致することや近代的な知識がなければ書けない内容も多く、偽書であることはほぼ確定している。<br>


先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)

聖徳太子が推古天皇の命を受け編纂したものとされる。伊雑宮(いさわのみや)の神庫から長野采女によって発見され、一六七九年に出版された高野本が流布した。
歴史的記述と文化的各論を加えた膨大なスケールの文献で、全編に神儒仏三教一致思想が流れており、特に教典というものを持たない神道の教典的性格を有する。
歴史的記述は、長髄彦の陸奥亡命説や飯豊皇女を「清貞天皇」として天皇に立てるなど、異伝を多く伝える。
伊雑宮の方が伊勢内宮より古くからアマテラスを祀っていたという記事が伊勢神宮の反発を招き、江戸幕府により偽書として禁圧された。文書の由来や作者などには依然謎が多いとされる。

物部文書

成立・編者ともに不明。秋田県仙北郡の唐松神社の神主・物部家に伝来した。その祖は物部守屋の子・那加世とされている。
祖神ニギハヤヒの鳥海山降臨と、天日宮の創建、物部氏の大和への西遷、長髄彦との和睦、神武への従属、神攻皇后の北海征伐、崇仏戦争の敗北と物部氏の故地回復などが、天日宮に関連した縁起譚となって記されている。
また、聖徳太子が神として美化され仏教説話的奇譚で飾られているのも特徴である。<br>
物部氏の家伝である禁厭伝や祈祷法が記されており、物部氏の宗教儀礼を知るうえで貴重であり、大和物部氏が所持した十種の神宝を秋田の物部家が伝えたと書かれている。現在はこのうちの五種が存在しているらしい。
文体からは古代まで遡るものではなく、阿比留草(あひるくさ)文字が使われていることも偽書視されている理由である。


契丹古伝(きったんこでん)

日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられた。もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるという。これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に『契丹古伝』(日韓正宗遡源)を発表した。本書はその復刻である。
『契丹古伝』は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていた。そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難であったが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定される。
浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。
古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。
『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。
さらに満洲にオロチ族とよばれる呪術をよくする異民族がいたことを伝えるが、これは『上津文』に登場するオルシ族ではないかと思われる。また鳥人・熊襲族が沖縄・南韓へ侵入したという記述や、匈奴・扶余・高句麗などの騎馬民族国家の成立、倭国と古韓国との交流、馬韓にあった邪馬台国の伝説など、環日本海文明の存在を伝えるきわめて貴重な伝承の宝庫として、今後の再評価が大いに待たれる異色の超古代文献である。
なお、スサノオが大陸を経綸した霊的消息については「霊界物語」にも伝えられ、王仁三郎の入蒙問題とも関連して注目されるところである。


このような「古事記以前の書」の書を「古史古伝」と名づけたのは、、これらの古文書や神代文字研究の分野で精力的に活躍している吾郷清彦氏だ。氏は、古事記、日本書紀、古語拾遺の三書を「古典三書」、それに先代旧事本紀(旧事紀)を加えて「古書四書」と呼ぶ。そして竹内文書、九鬼文書、宮下文書、三書を「古史三書」、また、これらと似ているが系統のちがった伝承を伝える上記、秀真伝、三笠紀の三書を「古伝三書」と呼び、あわせて「古史古伝」としたわけである。


竹内文書の謎

完全敗訴だった検察側

本物の竹内文書は、どのようなものだったのだろうか。天津教事件の公判で検察側は、竹内文献・宝物はすべて巨麿らが偽造したものであると主張した。だが巨麿を弁護した鵜沢總明弁護士(後年、極東軍事裁判の日本側弁護団の団長を務めるなどの在野法曹界の重鎮)によると、第一審の判決では偽造であるともないとも断定されなかった。一審では巨麿は、大宮復興を志したという不敬罪で有罪になったが、神代文字で書かれた神宝などは偽造されたものであるという点に重点を置いていた検察側にとっては、この判決は事実上の敗訴というべきものだった。つまり、すでに一審の段階ですら、偽造であるということを立証することが困難であった、ということに注目すべきだろう。巨麿は結局、第二次大戦中の1944年12月の大審院判決において不敬罪でも無罪になる。日本の敗戦が濃厚になってきた時期だったとはいえ、まだ天皇「現人神」扱いされていた時期でもあった。

鵜沢弁護士は1942年に開かれた竹内古文書研究座談会で、巨麿が所有していた神宝類については非常に肯定的な見解を披露している。中でも鵜沢が感銘を受けたのは、石の笛と神代文字の多様性だった。石笛は「これは世界に珍しいもので、13あったうち8つも壊れてしまったが、これなども実に素晴らしい」と述べている。石笛は岩笛とも呼ばれ、神社などに奉納された記録があるほか、縄文時代の遺跡からも発見されている。岩笛の音は心魂を揺るがすような響きをもち、平田篤胤の著作にも登場する。とくに空を飛んだという仙童寅吉は、篤胤から借りた岩笛がいたく気に入り、夢中で吹き鳴らしていたという。いずれにしても鵜沢がいうように非常に珍しいものだ。

鵜沢は、竹内家につたわるヒヒイロカネの剣についても興味深い事実を述べている。若い技師が分析した結果、亜鉛が含まれているから近代のものだ鑑定したが、最近になって太古のものに同質のものがあることが立証されているから、技師の鑑定は当てにならない、としている。

さらに興味をそそられるのは、神代文字についての鵜沢の発言だ。

裁判所では神代文字の書いてある包み紙を鑑定して元禄時代のものだから太古のものではないと見たらしいが、竹内家おいては太古そのままでは汚損するので時々書き替えて伝えているらしいから、単に紙の質が元禄年間のものだから太古の神代文字でないという見方は必ずしも正しいとは言はれない。しかも四百何種というような文字は急に偽造などできないし、現に竹内という人(巨麿のこと)はあまり国語も感じも読めい程度だ。日本字から神代文字に書き直すなど思いもよらない。(中略)私の友人に昔バビロン文字の研究に熱心になった弁護士があって、その人の雑誌にバビロン文字の写真が出ておったので、これを竹内氏(巨麿)に見せたら、それは日本の神代文字の何々に当たるもので、こう読むのだと即座に解答されたので驚いた。また今日アメリカに六千年前の文字としてスメル文字なるものが伝わっておるが、これも竹内氏に見せたら日本の神代文字であったことが直ちに判明した。(中略)とにかく、竹内家にある神代文字というものは実に偉大なものであって、偽造とすれば何千人の人かが、何十年もかからねば出来るものではありません。したがって到底一人で偽造したなど信ぜられるべきではない。

失われた超古代琉球王朝

竹内文書と海底遺跡の深い関係

与那国の海底遺跡と竹内文書とはどのような関係があるのか疑問に思った方もいるのではないだろうか。実はかなり関係がある、と私は考えている。

そう考えるようになった発端は、1984年に八幡書店から刊行した竹内文書『神代秘史資料集成 天の巻』に、変わった地図が載っていたからだった(『神代の万国史』には載っていない)。それは「天日神の天降りし国の図」と命名され、天孫降臨した天皇が城や都を築いた場所に三角や四角の印が付けてある。1984年といえば、まだ与那国の海底遺跡が見つかる二年前だ。ところが、その地図には沖縄諸島の海の上に都があったとも解釈できる印がついている。

東経137度11分に、あのような正確な南北のラインを描く測量技術があったと思われるにもかかわらず、この地図の出来は大雑把だ。そのため地図のどこが、現在のどこに相当するのか厳密にはわからない。日本列島の本州も丸みを帯び、簡略化されているように思える。南西諸島と九州は陸続きで、伊豆諸島も本州とつながっているようだ。いつの時代の地図なのかもわからない。

ただ大体の形から類推するに、沖縄と台湾の間か、台湾とフィリピン・ルソン島の間の海の上に、三角形の印が二つ付いている。もちろん小さな島の上に印があるため海の上に印が付いているように見えるのかも知れない。いずれにしても、この地図では南西諸島から台湾、もしくはルソン島にかけて六つぐらいの都が築かれたことになっている。

竹内文書の面白さはここにある。天孫降臨した神々は、世界中に都を築いたことになっているからだ。「天日神の天降ろし国の図」は世界地図ではないが、それでも朝鮮半島や中国や樺太にも都の印が付いている。ほかにも、四国だけでも五カ所、本州も十一カ所、九州・南西諸島八カ所、北海道にも七カ所の都が築かれたことになっている。

竹内文書の地図はいい加減ではないかと見る向きも多いと思うが、逆に驚くべき事実を指摘しているのではないかと思うときもある。幻の大陸と呼ばれるムー大陸とレムリア大陸を想起させる「ミヨイ」「タミアラ」に関しては後に触れるが、『神代秘史資料集成 天の巻』には万国(世界)地図も掲載されている。これもかなり大雑把で、いつの時代の地図かもわからない。だが注目すべきは、オーストラリアと見られる大陸と日本の間にもう一つの大陸を描いていることだ。つまりフィリピンやインドネシアの島々を一つの大陸として捉えている。これは、海面が今よりはるかに下がっていた氷河期に、同地方にスンダランドという大陸があったという最近の研究結果と一致している。五大陸がまだ完全に分離していない時代の地図もある。

もう一つ重要なのは、竹内文書に記されている神代文字とカイダ文字との類似性だ。神代文字の中に象形文字も含まれているが、これがカイダ文字に非常によく似ている。特に竹内文書の象形文字で魚の形をしている「な」の字と沼を表した「ぬ」の字、「木の絵」に似た「い」の字、ほかにも「ろ」や「わ」の字など類似例をどんどん挙げることができる。単なる偶然の一致では片づけられないのではないか。詳細な比較検討をする必要があるだろう。

竹内文書は、いわばほとんど年表なような淡泊さで、天皇が何を作ったとか、どこに行ったとか、どこに葬られたとかとかいった記述に終始している。だが竹内文書のユニークなところは、富山や岐阜を中心として捉えながら、日本列島中の超古代の「歴史」を網羅していることだろう。おそらく神武天皇の時代をはるかにさかのぼった神代の時代に、琉球に都があったことをこれほど明確に伝えている古史古伝はないのではないだろうか。もし竹内文書に記されている琉球の記述が正しければ、与那国の海底に一万年以上前の縄文時代に造られた神殿があったとしても、なんら不思議ではない。

こんなことを書くと、おそらく木村教授はいい顔をしないだろう。それはそうだ。ただでさえ、海底遺跡の存在に異議を唱える学者が多いのだ。「胡散臭い古文書」の類と自分の科学調査を一緒にしてもらいたくないだろう。
竹内文書が偽書のレッテルを張られている以上、今の時点で与那国の海底遺跡と竹内文書を結びつけるのは得策ではない。しかし竹内文書の封印が解かれ、学会でも偽書という面だけではなく自由に研究や論議がなされるようになれば、意外な事実が浮かび上がってくるのではないかと思うのだが、いかがだろうか。

日本にも「トロイヤ」が眠っている。

竹内文書を世に出した巨麿とはいったい何者だったのだろうか。捜査当局が初めて強制捜査に着手した1930年(昭和5年)当時の新聞は連日のように、巨麿がいかにペテン師で神宝・文献を偽造し、人をだまして金を巻き上げようとしたかが、大々的に書かれている。その一方で、天津教弾圧事件の際、信者でもないのに身柄を拘束され、虚偽の事実を自白するよう強要され、挙げ句に体を壊すまで取り調べを受けた地元の名士・吉田兼吉の『神宝事件の回顧』を読むと、巨麿が実は金の亡者ではなく、人々に神宝類をひけらかして信者獲得を図ったのではないという事実が浮き彫りになってくる。むしろそこには、時の権力者により社会的に抹殺された悲劇の宗教家の姿がある。


・・・・・(巨麿が)天津教の布教宣伝に神宝文献を振り回しておらなかった事は、私が宝物拝観毎に立ち会って、古い信者でも初めて拝観する者が多く、ほとんど神宝文献の存在していた事を信者で知っていた者がない状態であったことでわかる。警察でも調査の結果、その真相がわかっていたようである。

しからば、何をもって起訴の理由とするのか、数十人の警察官が総動員で検挙に当たり、毎日誇大に宣伝した手前、大山鳴動一匹のねずみも出ないとなっては当局の面子は丸つぶれである。自己の立場を救う道がない。そこで宝物拝観中に不敬があったという事にもってゆき、「三種の神器が竹内家にあったと竹内氏が説明した」という点に起訴の根拠をもっていゆき、その下に調書を取る方針を立てたち思われる。

(中略)

ただの一回も神宝はもちろんその文献すら見たことのない元京都帝大総長狩野亭吉博士に、「竹内文献は全部インチキ偽物なり」と岩波書店で発行する『思想』の特別号に書かせたのは誰であるか。単に雑誌へ書いただけでなく、これを小冊子として各方面に配布し、またこれを各宮家や雲上人にも奉献した由であるが、これは何人かが神代文字研究を抑圧せんと策謀した一手段であったと解する。果たしてそうであるならば、かかる徒輩に利用された狩野博士の態度ははなはだしい軽率であり、ただ逆に場合によっては恐るべき大不敬罪をも構成するものではあるまいか。

宗教的になんら利用する事のなかった竹内文献に対し、これを調査研究をなす者に対し、邪教天津教の迷信者という汚名を被せ、新聞にまで堂々と書いて宣伝し、50〜60名の役員が一年半も総がかりで、莫大な国費と経費とを消費して何もなかったでは引っ込みがつかない。よって神宮神祠に対する不敬問題をデッチ上げたのではあるまいか。

私は拘留されている間に係の役人に幾回となく注意した。事実を事実として正しく調査せずに、頭から罪を被せようとすると、とんだまちがいが起こる。文献の内容も簡単にはわかるものではない。遊就館にある神宝鑑定の結果を待って、罪あらばどんな処分でも受ける、と。ただし私の忠告は少しも願みられなかった。そしてまったく事実に反する調書ができあがった、こんな調書が何の役に立つかと私は思う。

新聞や、狩野博士によって事実に反する宣伝をなさしめ、軍人や有力者と絶縁させ、孤立無援とした上に竹内氏を処分しよう、という方針だから知識階級の関係者に対しては「将来竹内家に関係しない」という覚書に等しい調書さへ取ったのである、左様に私は思うのである。

(『神宝事件の回願』より。一部現代文に改訂)

巨麿は悲劇の宗教家だったのかもしれない。少なく天津教事件は、紛れもなく冤罪だったのだ。その中で、狩野のような権威者が竹内文書を偽書と断定したことも、悲劇といえば悲劇だった。狩野の論文により竹内文書はほぼ完全に封印されてしまったのだ。

だが竹内文書のことを、狩野が断定したから偽書であると決めつけるのは、吉田が指摘しているように完全に誤りだ。まず、自分の目で見て、感じ、そして判断していくべきだろう。おそらく竹内文書には私たちが思いもよらなかった歴史の秘密を解く鍵が隠されている。地元の人でも解けない「地元の謎」を解く鍵もあるのではないだろうか。その実例こそが、壮大な羽根のラインであり、不思議な尖山であり、五箇山・天柱石にある祭壇のような遺跡なのである。それは原日本人が、真の歴史を後世の人が確認できるように残した遺言であるのかもしれない。ならば一人一人が竹内文書の真実の部分と向き合って、地元に伝わる謎を解こうとすることは、決して無駄なことではない。

日本の中心が越中や飛騨にあったとする竹内文書をいぶかる人も多いと思うが、日本の中心が飛騨地方にあったとする説はそんなに突拍子もないことではない。竹内文書によると、飛騨から乗鞍岳にかけて太古にすぐれた文明が存在したことになっているが、飛騨には原始地殻に属する世界最古の岩石が存在することが明らかになっている。もし竹内文書が示唆しているように、太古において宇宙から地球に移住が試みられたのならば、おそらく降臨(着陸)したのは、こうした原始地殻に属するような地だったとみるのはごく当然のことだ。そしてデニケンが主張したように、神々の痕跡(文明)が世界中に残されていたとしても不思議ではない。

ところが、そうした超古代巨石文明を説明するような文献など、まず残っていない。竹内文書は、その超古代文明のガイドブックとなりうる数少ない文献の一つといえるのだ。その希少性を勘案すると、仮にその内容がすべて本当でなくてもいいのではないか、一言一句事実である必要はないのではないか、と私には思えてくる。超古代文明の謎を解き明かすヒントさえあればいいのだ。なぜなら、竹内文書を知らなければ、羽根という地名に出会っても何も気が付かないまま通り過ぎて、それで終わってしまうところだった。ところが上古第14代国之常立天皇が「天空浮船に乗り祖来ガ峰(鑓ケ岳)へ羽根飛び登り行く所を羽根と名付ける」と竹内文書に書いてあることを知っていればこそ、東経137土11分にある「羽根ライン」を見つけることができたのだ。これを神々の遺言と言わずなんと言えばいいのか。

竹内文書は、そうした謎解きのヒントに満ちあふれている『イリアス』『オデュッセイア』の二大叙事詩の作者と伝えられている古代ギリシャの詩人ホメロスの記述を信じたシュリーマンが、トロイアの遺跡を見つけたようなケースもあることを私たちは今一度、思い起こすべきだろう。


「竹内文書の謎を解く」布施泰和・著


新宗教と古史古伝

裏の伝承を吸引する霊的イマジネーションの世界<

かつて、独自の異質、かつ強烈な神話体系故に、ときの官権から大弾圧を受けなければならなかった「大本」。出口ナオを開祖とするこの宗派について、これまで多くが語られてきた。が、その底流には、いまだ錯綜した不可解な謎の部分が存在している。そしてそこには『古事記』『日本書紀』といった、いわば表の歴史伝承に対してある、裏の伝承・古史古伝にあい通じて見えるところがあるという。『武内文献』『富士古文献』『九鬼文献』・・・・。その符号の意味するものは何? しかし、謎は謎を呼ぶ。これらの文献に照合させたとき『大本』のジグソー・パズルは、またひとつ、その全貌を複雑にしていくのだった・・・・

我が国には、記紀やその他の公認された歴史伝承とは異質の伝承を秘めた文献がいくつも存在する。『武内文献』『富士古文献』『上記』など、これらの古史古伝と呼ばれる文献は、まともな歴史学の対象としてはついぞ論じられたことがない。

だが、それが文字通り古史であり古伝であるかどうか、あるいはなんらかの歴史的事実が反映されたものであるか否かということはさておいても、これらの文献を単純な捏造の所産と考えるにはあまりにも事態は複雑である。これらの文献には、いずれもその出現過程暖味さや著しい混乱の形跡、複数の情報ソースの習合、さらに特定の強固な観念の繰り返しと増幅などが認められる。そして、一方で相互に矛盾した世界像を描きながら、どこかでジグソー・パズルのように合わさるところがある。

そして、なによりも注目すべきことは、これらの古史古伝の多くが、大本となんらかの関係を保有していたことである。

「AZ」第三号


古史古伝に共通する、大本の強烈・異質な神話体系



王仁三郎は『竹内文献』について、
竹内古文書はわしが神界から聞いているのとまた少し違っているところもあるが、また信ずべきところもあり事実もある。鵜沢博士はこれを読んで感心して世の中が変わると云ふているのである。わしも神界から聞いているけれども、そんなこと云ふたら日本の国が潰れてしまふさかいあくまで此のままで押し通して行かねばならんので黙っておるだけじゃ」と述べていたという。

古史古伝と「大本」の親密な関係について、一般的にはつぎのようなことが指摘されうるだろう。
近代の神道運動は、以下のような力学内包していた。
西行法師が伊勢神宮に参拝して詠んだと伝えられる有名な歌がある。

なにごとのおわしますかは知らねども
     ただかたじけなさに涙こぼるる


こういう不可知論を決定的に体系付けたのは本居宣長である。神代のことは結局の所わからない。あるがまま素直に受容せよ。それをあれこれいうのはさかしらである。簡単に言うと本居宣長の到達した立場はそういうものであった。

これは、事のある一面をついたきわめて巧妙な論理であり、それゆえ本居国学の基本ラインは、明治以降に輸入された実証主義史学と容易に接合され、それはまた国家公認の神話を余分な詮索からガードし、さらに迷信の根絶という近代化理念の両方の要求を満たすものとして、極めて微妙なバランス構造をもたらしたのである。

こういう立場からすると、神代文字であるとか、とりわけ古史古伝といったものの存在そのものが、神代に対する妄りな解釈の根元であり、徹底的に排撃されねばならないことは必定であった。いな、『古事記』ですらもが、すなおに解釈されなければならず、そこに宇宙創世の密義が隠されているといったオカルティックな解釈は、絶対に公認されるものではなかった。

これに対して「なにごとかおわす」のかを追い求めるという立場というものがおのずからあった。それを代表するのが平田篤胤である。彼はその為に、幽界に出入りしていたという天狗小僧寅吉という少年を捕まえて詳しい聞き書きを残し、道教教義に失われた太古神道の伝法の追跡を試み、神代の聖なる文字を嵬集した。

明治維新を理念的に領導したのが平田篤胤を祖とする復古神道派であり、彼らが神祇官を復興したことから、平田篤胤というと国家神道体制の礎石をつくった人物とみなされがちであるが、実際には平田派の神官達は明治四、五年の段階で政府中枢から放逐された。のみならず、人の死後その魂は大国主の支配する幽界に行くとする平田派の霊界論は、ついに公認されることはなかったのである。そのあと明治三十三年の内務省神社局の設置によって完成される国家神道体制は、神道から霊と神代の領域を幽閉するきわめて巧妙なシステムであり、論理的基盤としては、むしろ本居宣長の呪縛のほうがはるかに寄与したといえる。

これに対し、平田篤胤の方向をより過激に継承したのが出口王仁三郎であり、古史古伝をとりまく人々であったといえよう。

古史古伝がいずれも表面的には対外膨張と天皇信仰という、時局にふさわしそうな側面を保有しながら、あのファナティックに国粋主義的情念が高揚した戦時中でさえ、エスタブリッシュメントの一部に個人的なレベルでのシンパシーを獲得しながらも、組織された体制から排除され、あるいは未公認の秘説として語られ続けなければならなかった秘密は、ここにあったといってよかろう。(そう言う意味では、この国はゲルマン民族の神話を「二十世紀の神話」として再編したドイツと比べると意外と公的に常識的で健全であったのかもしれない)

あるいは「大本」にしても、「なにごとがおわしますかしらねども」という立場に留まっている限りは、その主宰神がスサノオでれなんであれ、あれほどの大弾圧を招来することはなかったはずである。問題は、「大本」が独自の異質、かつきわめて強烈な神話体系という点では、「大本」に内在するものと『竹内文献』を代表格とする古史古伝は、成立の基盤には共通するものがあったと言える。


幽閉された、岡田茂吉の霊的イマジネーションの世界



さて、現在の新宗教と呼ばれる教団の源流はいくつかあるが、その中で「大本」はやはり重要な位置を占める。大本で触れた神聖龍神会のような秘教的集団はともかくとして「大本」からわかれ、社会的に顕在化して大規模な教団形成に至った集団として、谷口雅春の「生長の家」岡田茂吉の「世界救世教」が挙げられよう。

このうち「生長の家」は教義的には『古事記』中心であり、古史古伝の影響はほとんど受けていないが、「世界救世教」を開いた岡田茂吉は『竹内文献』について次のように言及している。

「昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終わったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持って逃げ、是をかくして土の中にいけこんでおいた。それが今に伝えられた。是は竹内宿祢の家に伝えられ、例の天津教の武内家にあるものにして、武内家には、その中にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとしたとき宮内省では受け取らなかったのである」(論文集・未定稿)

「三種の神器はたくさんあるんだからね。あれは代々でなくても、天皇が随分揃えたのです。一番の元−−−古いのは天津教にある。あれが一番古い。神武天皇のもっと前です。一番新しいのは伊勢にある。あの時代に揃えた−−−千年か前ですね

すでに岡田は、昭和元年十二月ある夜神示を受けて、五十万年以前の日本の創世記を執筆し、原稿用紙で約四〇〇枚あったが、「皇室に関する事が割合多く」、当局の家宅捜索を恐れ最初はブリキ缶に入れて土へ入れたりしていたが、未だ安心ができないのでついに消却したという。そのなかには数万年以前インドが大軍をもって九州に上陸したが、山陽道で撃退され、その子孫が台湾に落ちて高砂族になったというような話が記されていたという。

さらに茂吉は『日本人種の霊的考察』と題する一文の中で、日本民族には四つの系統があるとして、独自の古代史観を披露している。伊都能売神皇・天照天皇確立していた純粋の大和民族と、中国の磐戸神王を祖先とするニニギノ尊の天孫民族、韓国に発するスサノオ尊の出雲民族、コーカサス地方から蒙古、満州を経て東北に上陸した「土匪」の四つの系統があったといい、すべての歴史過程はこの四つの勢力によるせめぎあいのなかで展開されたという。なお、伊都能売神皇はスサノオの出雲族から逃れ、インドに渡り観音になったといい、このあたりは「救世教」の核心をなす、観音信仰の背景として位置づけられているようである。

一般に「世界救世教」というと、昨今は内ゲバ騒動、ダ・ヴィンチ事件のみ有名をはせ、宗教学者の間でも、浄霊と呼ばれる手かざしによる病気治療や自然農法といった側面に置いて議論される程度であったが、岡田茂吉には、大本や古史古伝の世界と通底する霊的イマジネーションの世界があったことは銘記されてよかろう。ところが、岡田茂吉の没後、「救世教」は妙な合理主義とりつかれたのか、こういった、いわば教祖の神秘的な世界観を幽閉して今日に及んでいる。実際、今引用した『日本人種の霊的考査』なども現在は公的に頒布されていない状況にある。深刻な内部葛藤の時期にある現在なればこそ、おのがは教団の出現に対して、教祖自身が行った神話的な意味付与について研究がなされてしかるべきだと思うのだが・・・・

「AZ」第三号より


驚愕の解き明かしが始まる

飛鳥昭雄氏は、古代史から宇宙論に関して幅広く仮説を立てています。

特に古代史に関しては、「天照大神=イエス・キリスト説」等があります。
私(ホームページ作者)はこの説には同意出来ませんが、彼の竹内文書に対する考え方や、情報がおもしろいものなので、一部抜粋して掲載します。



わが国の成り立ちを記した正式な国の歴史「国史」とは、奈良時代に撰録された『古事記』と『日本書紀』のことである。

それを並称して「記紀」と表している。

ところが、世界中のどこを捜しても、2つの国史が並立しているような国は日本くらいなものである。それも「正史」であるはずの記紀の内容が、両書で違っているのである。

重複ならまだいいが、肝心要の神の名が両書で全く異なったり、親子や兄弟が入れ替わったりすることもあれば、ある業績を成した人物がもう一方の書では別人になったりしている。
これでは無茶苦茶で、歴史の体すら成していない。
『日本書紀』では「一書に日く」と引用の形をとっているとはいえ、神話時代の記述ともなると、両書とも非現実的で非科学的と断じざるを得ない。
たとえば、天地開闘の後、伊邪那岐命が伊邪那美命を連れて天の浮橋の上に立ち、巨大な沼矛を泥の海に突き立てて掌回すと、重れた雫淤能碁呂島になったとか、須佐之男命が
八岐大蛇(八頭八尾の大蛇)を策略で打ち倒し、尻尾を裂くと中から草薙剣が出てきた…等々、実に奇怪で異様な物語が続いていく。

アカデミズムの記紀に関する見解は、こうした神蓼他愛のない空想と創作、あるいは象徴として片付け・神話時代の後の鮒天皇以降からを歴史としている。なぜ、こうした奇怪な神話を国史に取り入れたのか、その意味を探ろうともしないのである。
ところで、近代の研究では「欠史8代」といって、初代.神武天皇10代.崇神天皇との間の8人の天皇は、存在しなかったとする考え方が主流になっている。

なぜ欠史かというと、一国の支配者たるべき8人の天皇に業績が一切なく、ほとんど名と出生しか記されていないからである。最も重要な国の基礎固めの時期の天皇であるにもかかわらず、何の業績もないなどということがあるだろうか。まして神武天皇の後継者たちである。いくらなんでも、それは不自然というわけだ。

最近では、神武天皇すら存在しなかったとする傾向にある。つまり、記紀の記述のほぽ3分の1が信じられないということだ。
言うまでもないだろうが、『古事記』(712年献上)や『日本書紀』(720年献上)が日本最古の書というわけではない。

たとえば『古事記』は、天皇家の記録である『帝皇日継(帝紀)』と、神話大系の『先舊辞代(旧辞=本辞)』から起こされている。その『帝紀』や『旧辞』でさえ、諸家で内容が異なっていたというから話がややこしい。

だから40代.天武天皇が稗田阿礼に命じて誦習わせたのであろう。それでさえ前述したように様々な矛盾を抱えていて、神話時代になるとアカデミズムの信用度はゼロと言っても過言ではない。

そのアカデミズムにも、非常におかしな現象が存在する。

日本には、記紀と同じ神話時代を記した「古史古伝」と称する古文書がいくつもある。
それらは写本を繰り返して現代に伝わっており、その成立年代は記紀より古いとされているのだが、それらのほとんどを「偽書」と決め付けているのである。

写本といっても軽く見てはならない。

記紀でさえ原本は残っておらず、東京・永田町にある「国立国会図書館」に保管されている記紀も写本である。

印刷技術のなかった当時、湿度、虫食い、年月の経過等で傷んだ書は、写本するしか手段がなかった。

その古史古伝で代表的なものは、何と言っても武内宿彌の子孫が受け継いだとされる『竹内文書』であろう。

『古事記』には、宿禰は異様なほど長寿で、第12代・景行天皇に始まり、第13代.成務天皇、

第14代・仲哀天皇、第15代・応神天皇、第16代・仁徳天皇までの5代の天皇に、244年間にわたって仕えたと記されている。

それ自体が常軌を逸しているだけに、宿禰の子孫が代々同じ名を継承したとする説が有力視されている。

他にも『竹内文書』と並ぶ古史古伝が全国に伝えられており、富土吉田市の「浅間神社」ら出てきた『宮下文書』は、日本の神々の発祥をアジア大陸と記している。

そして、聖徳太子が蘇我馬子に命じて撰述させた『先代旧事本紀』は、第3の国史として、
今では物部氏の歴史を知る上で欠かせない一書とされている。

時代は下って江戸時代の書『東日流外三郡誌』には、古代の津軽地方にいた阿蘇辺族に津保毛族が混血し、その後、神武天皇に敗れた邪馬台国の安日彦と長髄彦が合流した等々、記紀にはない東北地方の歴史が記されている。

それだけではない。

秋田県の「唐松神社」から出てきた、物部氏の記録が詳細に記された『物部文書』があり、和歌山県の「熊野大社」の宮司職を勤める九鬼家に伝わっていた『九鬼文書』なる古史古伝も存在する。特に『九鬼文書』は、神武天皇以前の王朝として、『竹内文書』と共通する「鵜葺屋朝」の存在が記されている点で、注目すべきだろう。

また、大三輸氏の流れをくむ井保家に伝えられた『秀真伝』は、漢字伝来以前の「神代文字」のひとつであるホツマ文字で書かれていて、全体が五七調の叙事詩で構成されているのだが、記紀では女神とされている天照を、"アマテル"と称して男神だとしている。

記紀以前、もしくは古史古伝を後世にまとめたこれらの書のほとんどを、アカデミズムが
"偽書"と決め付けているのはなぜなのか。

その最大の理由は、記紀とは異なる内容が書かれているからである。というより、記紀にはない内容が記されているからという方が正しいだろう。つまり、アカデミズムは、記紀しか頭にないのである。

アカデミズムは、記紀における神武以前の神話時代の内容が非科学的でデタラメとしつつも、他の記述はすべて史実としている。しかし、それでは反則である。

彼らが目を瞑っている記紀の神話時代を解き明かしてこその正史であろう。でなければ、記紀は「デタラメな神話を含んだ国史」の汚名を着せられたまま、これからも存在することになる。

そもそも古史古伝の範疇とは、記紀が記さない神武以前であるはずである。その古史古伝の筆頭が今回の『竹内文書一竹内文献を含む)」なのだ!!

この古文書を偽書と決め付ける理由のひとつが、戦前の軍国主義時代を、アカデミズムが未だに引きずっていることである。

当時、「八紘一宇」を掲げた軍部を中核とする「国家神道」にとって、記紀以前の神話時代を記した『竹内文書』のような存在は、国民を天皇の元に一致団結させる国策の上から、邪魔以外の何ものでもなかった。ゆえに、宗教・思想を取り締まる特高(特高警察一は、国体に混乱を引き起こしかねない古史古伝の類を、不敬罪と治安維持法違反を盾に封殺したのである。

それに手を貸したのが当時の学者たちで、彼らは一致協力して古史古伝、特に『竹内文書』を偽書≠ニして袋叩きにした。

もし神武天皇以前の神話時代を記した古史古伝を偽書とするなら、同じ神話時代を記す一多くの矛盾を含む)記紀も同罪である。

現代のアカデミズムの考え方もこの時代からほとんど変わらず、未だに『竹内文書』に偽書のレッテルを貼ったまま、その存在を無視する姿勢を貫いている。

さらに、現代のアカデミズムがひとつ覚えのように口にする、「神代文字で書かれているので偽書である」とする決め付け方が、大きな問題である。

神代文字とは、漢字伝来以前の日本に存在した様々な古代文字のことで、漢字が使われるようになってから姿を消したとされる。

その研究で知られた明治初頭の国学者・落合直澄氏の調査によると、当時ですでに100種類以上の神代文字が全国規模で発見されていたという。それが『竹内文書』の登場で、その数は一気に増えて、なんと400種にまでなった。

戦前からアカデミズムは記号にしか見えない神代文字を、後世の作だとして、偽書を判定する"踏み絵≠ノしていた。

もう一度言うが、『竹内文書』のすべてを偽書とするなら、デタラメな神話を載せ、相矛盾する記述が多々ある記紀も偽書ということになる。となると、記紀が記す日本の起こりが、結果的に"偽り≠ニなるのである。

ところが、ここからが重要なのだが、もし仮に、記紀神話が事実を記していたとすれば、どういうことになるのだろうか?

実はある方法を使えば、記紀神話の記述が絵空事や空想ではなく、全て過去に起きた事実を象徴していたことが証明できるのである。非常識の権化と揶揄されてきた『竹内文書』のほとんどの記述についても、しかりである。

これまで数多くの研究者が『竹内文書』に挑戦し、様々な角度からその謎を解こうと試みてきたが、残念ながらこれまでに公表された研究内容は、どれも不十分だった。

なぜなら古史古伝の謎を紐解くには、ある特別な鍵が必要であり、これまでの研究では気づかなかったからである。

『竹内文書』と月の先住民 飛鳥昭雄 著より


巨麿の判決で証明された『竹内文書』の真相!

今、われわれが『竹内文書』を手に入れるには、どうすればよいのか。

念のため申し上げておくが、巨麿自身が『竹内文書』を本にまとめて発行したことは一度もない。

『竹内文書』の断片が、酒井勝軍の著した解説書『神代秘史百話』と『モーセの裏十戒/太古日本のピラミッド』にあり、山根キクの『光は東方より』と『キリストは日本で死んでいる』に引用されている程度である。それさえ、焚書同様の発禁処分で消え失せ、『神代秘史百話』を収録した『竹内文献資料集成』(旧題『神代秘史資料集成』)が、タイトルを変えながら復刻されているに過ぎない。

そうした中、『皇祖皇太神宮』の第67代管長だった竹内義宮氏が『神代の万国史』を公表し、それまでは断片しかなかった『竹内文書』の全文を一冊にまとめ上げたのである。これは『竹内文書』の決定版といえるだろう。

しかし、皇祖皇太神宮側は、それが『竹内文書』のすべててはないとしている。巨麿が公表したのは「天之巻」の一部しか過ぎず、「地之巻」と「人之巻」がまるまる残っていると断言しているのだ。それらも時期を見て徐々に公表する意向だというから、『竹内文書』のファンにしてみれば、大いに期待していいのではないだろうか。

逆に言えば、『神代の万国史』でさえ、巨麿が公表した『竹内文書』「天之巻」を網羅しても、全体の一部に過ぎないということだ。

巨麿が公表した『竹内文書』の原書は、裁判資料として多数の御神宝とともに水戸地方裁判所に提出した後、東京大空襲に遭遇して灰燼と化した以上、「皇祖皇太神宮」が保管する『竹内文書』の原書は、巨麿が公表した部分が欠落しているはずである。

それがその後に編纂された『神代の万国史』にまとめられているということは、巨麿の写しが存在したということになる。もちろん、「皇祖皇太神宮」は、勝軍やキクの本が発禁処分になる前に必要な冊数を保管していたはずで、そうなれば再販も容易だったはずだ。

大審院での巨麿に対する判決は無罪だったが、その意味は巨麿の無罪放免より『竹内文献』の真偽についての結果の方が大きいかもしれない。
特高は、御神宝の「神骨神体」76体中の2体をもって、人骨を固めた物ではなく、偽作なのでそこに刻まれた神代文字も偽かと訴えた。
しかし、骨灰を固めた物にあらずとする理由が、燐の含有量の少なさにあったため、それが大きな物議をかもすことになる。燐は揮発性が高いため、時の経過とともに減少して当然だからだ。まして御神宝は骨灰を固めた物なので、なおさらである。

こうして、刻まれた神代文字の内容以前に、特高の言い分は認められなかった。

ところで、『竹内文献』について、ひとつの大きな謎がある。これらは戦時中のアメリカの爆撃を受けて跡形もなく消え失せたことになっていることだ。ところが、筆者が「天津教事件」にも関わったとされる某神道系の大物から聞いたところによると、原書を含む神宝の4000点近い証拠品は・巨麿の無実が確定した直後、どこへともなく運び出されたというのだ。もしそれが事実なら、それらの文献を運び出したのは、司法権を押さえ込むだけの権力を持つ組織、もしくは人物だったことになる。

立法.行政・司法の「三権分立」は、軍による暴走によつて大きく掻き回され、当時の日本ではほとんど機能していなかった。

特に特高が関わる思想犯取締においては、裁判も行われないまま闇に葬られる場合も多く、昭和8年(1933年)には、プロレタリア文学作家で『蟹工船』を著した小林多喜二が、官憲の加える拷問によって殺害されている。
軍の憲兵隊も、大正年12年(1923年)起きた「関東大震災」のドサクサに紛れ、当時の
社会運動家だった大杉栄を連行し、同棲中の伊藤野枝と6歳の甥もろとも殺害している。
特高が巨麿を逮捕拘束した昭和11年(1936年)とは、まさにそういう時代だったのである。当時の日本は、軍国主義に支配された「軍事国家」であると同時に、国民を権力で徹底監視する「警察国家」でもあったのだ。

よって巨麿が官憲に引っ張られた事実のみ取り上げ、巨麿を怪しげな人間と決めつけるのは間違いと言える。

『竹内文書』と月の先住民 飛鳥昭雄 著より


『竹内文書』の偽書論

昭和11年(1936年)、岩波書店を通して狩野亨吉氏が「天津教古文書の批判」を行い、『竹内文書』を偽書として徹底的に攻撃したことがあった。狩野氏には大変申し訳ないが、結局は重箱の隅をほじくる程度しかできなかったように思える。大局を小事で見誤った典型ではないだろうか。

狩野氏が攻撃に真っ先に利用したのは、「長慶皇太神宮御由来」にある誤字と表記の誤りである。ご本人は論文等で、過去に一度も文字を書き間違えたことがないのだろうか。ましてや、『竹内文書』は写本を幾度も繰り返しているのである。第66代宮司の巨麿まで4代ごとに写本を繰り返したとあるので、単純に数えても都合16回も写本されたことになる。その間に誤字脱字があったからといって、誰が責めることができるだろう。

句読点、仮名遣いの誤りなどは、この類だったかもしれない。あるいは、神代文字から漢字仮名混じり文に訳す際に、誤訳があったかもしれない。

誤字や誤訳があるから偽書だと決め付けるのは、いささか乱暴すぎはしないか。
『日本書紀』は、「一書に曰く」と書かれていたから許されたのだろうか。
おまけにある目的を持って共通文字を使ったり、故意に矛盾を作って仕掛けをするのも偽書の証拠というのでは、矛盾の塊である記紀はどうなるのか。

狩野氏が再三にわたって引き合いに出す"漢音混入≠ノしても、写本の段階で当時の人聞が理解しやすいよう、古語表記を時代に即した表記にした可能性がある。要はそれで意味が通じればよいのであり、意味が分かりにくい表記のままにするより、はるかに良心的である。

実際、平安時代前期、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂された時でさえ、「万葉仮名」を読み下せない者も大勢いたという。

万葉仮名は、日本語を表記するためにあえて表音文字として用いた漢字のことで、『万葉集』で用いられてその名が付き、「真仮名」とも言う。原則として、元の漢字の意味と無関係に使われるため、意思を受け答えするにはそれなりの(古い)知識が必要だった。この万葉仮名から「平仮名」と「片仮名」が生まれたとされている。

平安中期に万葉仮名が通じない時代になりつつあったことからも、社会情勢に応じた変化が求められていたはずなのだ。

神代文字は表音文字だったとされ、アカデミズムが神代文字を否定するのは、「ン」または「h」「s」行の発音が平安末期以降に作られたと判断しているからだ。つまりは狩野論である。

確かに「ン」は万葉仮名にはない。「ン」が使われるようになったのは、漢文に訓点を打つようになってからで、「ム」の発音変化が「ン」を生んだとされる。平安初期に作られた47音の『いろは歌』にも「ン」は含まれておらず、神代文字といわれる漢字仮名混じり文に「ン」の表記があると、即、偽書のレッテルを貼ろうとするのはそのためである。

それなら、『古事記』はどうなのか。『古事記』は、この時代の他書には一切ない上代特殊仮名遣「モ」を使っている。アカデミズムは他の古史古伝には特殊性を認めず、相手が国史なら例外として許容するのである。

また、「ハ」音は、上代であれば[Pa]、平安中期なら[fa]、江戸中期なら[ha]、現代では[Wa]という音の変遷がある。卑弥呼を上代なら「ピミコ」と発音したはずというのが、アカデミズムの常識である。だが、卑弥呼に関しては日本の歴史年代以前なので、大和民族だったかどうかも分からない。民族が違えば何の役にも立たないそのような常識を、伝家の宝刀のように振り回している。大和民族には『魏志倭人伝』に記されているような倭人の入れ墨の習慣などはなく、明治時代までアイヌが"高床式住居≠ノ住んでいたことさえ、アカデミズムは考えもしないのだ。

一般に使用が許可されない神代文字を、平易な漢字かな混じり文にしたのも、至極当然である。それをどの程度書き換えるかは、その時代の宮司の判断であり、それをもって偽書とするのは行き過ぎだろう。

たとえば、戦前まで日本では「そんなことを言ふものではない」「いいにおひがする」「ラヂオを聴きませう」「これをお願ひ」「感謝してゐます」「無駄にしないやうに」など平気で書いていたが、必ずしもそう発音していたわけではない。それを知らない今の若者に向けては、現代表示の文章に書き直すというのが人情である。

"漢音混入≠ェあるから偽書という狩野氏の理論は、戦前の文章を「そんなことを言うものではない」「いいにおいがする」「ラジオを聴きましょう」「これをお願い」「感謝しています」「無駄にしないように」と記したら、千数百年後、これは戦後の作と判断されて偽書にされた…-ということと同じであろう。「ラヂオ」を「ラジオ」に書き換えた行為が、偽書と判断する決定的証拠といっているようなものだ。

神代文字に対する批判も、神代文字はアイウエオの50音で構成され、これこれに関しては平安時代中期以降の音であるため、上代古語ではないと判断をされるわけだが、これは相当な的外れということである。

神代文字を50音に置き換えて表示し、「神代文字の50音表割付」を作ったのは、狩野氏自身のはずである。自分で最初に割り付けておきながら、そこから外れれば除外し、割り付けられているので間違いというのでは、一見すると博学者の交通整理と勘違いしてしまうが、とんでもない自己矛盾を引き起こしている。いやそれよりひどい論理矛盾である。

なにしろ、狩野氏が行った鑑定はたかだか2枚の写真だけのことで、多々ある神代文字の真贋鑑定を行ったわけではないのである。原書を調べたわけではなく、表面的な部分から、重箱の隅をつついただけだ。

その程度の検証で、安易に偽書として判断し、特高と一緒になって攻撃を開始したのである。時代が国家一丸の国粋主義の時代なので仕方がないといえばそれまでだが、時代は変わっても、未だにアカデミズムはこの狩野論を振り回している。

言い換えれば、動詞の終止形を用いるべき部分に連用形を用いている等の文法上の判断は下せても、『竹内文書』を解読することなどは到底できないのである。

「天津教古文書の批判」については、最近になって様々な事実が明らかになってきている。某海軍大将からの使者が狩野宅を訪れ、真贋を確かめてもらうため写真を7枚を置いていき、その内の5枚を使って狩野氏が検証したというが、その写真は陸軍が作った偽物で、狩野氏自身も周囲に対して、1928年に現役の陸軍大将から天津教撲滅を依頼されたと話していたという。

つまりそうなると、狩野氏自身も明言しているように、記紀は絶対であり、それと一致しなければ史料としての価値がないとする態度が、狩野氏の偏った国粋主事的イデオロギーを刺激し、軍と一緒に行動した動機となる。つまり狩野氏はバリバリの右翼だったのである。

同じ時代、記紀は史実ではないということを、様々な矛盾点を指摘して批判した歴史学者の津田左右吉は、昭和14年(1939年)に著した『神代史の新しい研究』で様々なところから集中攻撃され、同著は翌年には特高により発禁処分となった。その結果、やむなく早稲田大学の教授職を辞任するに至るが、その体制側に狩野氏もいたのである。

確かに『竹内文書』は弾圧の中で一時は姿を消したが、「皇祖皇太神宮」は生き残り、戦後、再び世に出てきた以上、仕掛けは成ったことになる。

巨麿と鞍馬で相対したのは、時代が変わっても、何ら動じない裏神道の要とされる人物である。

政の権力者は、どの時代にも現れては消えていく。だから彼らに与することなく、昔からの決め事を守り通し、時期が来るまで封印を解かない役目を担っているとされる。日本が軍国主義の道をひた走ろうと、国家神道に傾倒して狂気化しようと、アメリカと戦い敗亡しようと鳥には一切関係がない。決められた祭り事を代々進めていくだけである。

『竹内文書』の出現は、彼らにとれば計画の範囲だったのかもしれない。あるいは彼らの始祖が、『竹内文書』の作り主だったのかもしれない。そして彼らは記紀も練り上げた……。筆者はそう信じている。

『竹内文書』と月の先住民 飛鳥昭雄 著より


楠木正成は皇祖皇太神宮神主家の分流であった

面白い説があったので掲載します。
太平記に出てくる南朝の忠臣・楠木正成が実は竹内家の血を引いているという内容です。


この大自然界には絶対普遍の法則が働いていて誰でも知っていながらこれを見過ごしている場合が多い。
「類をもって集まる」ということは古来常識とされているが、これ一つ悟ることによって、誰でも自分の運命を予見することが出来る。

善悪に関係なく運の良い人はどこまでも運が良く、運の悪い人は最後まで運が悪い。極くありふれた例ではあるが、会社が悪いからといってどれだけ転職しても勤め先は前にも増して悪くなる。悪の道に一度入ってしまったら、いかに逃れようとしても悪の道に引きずり込まれてしまう。

これは自分の心を支配している霊が、同類の霊を求めるからで人間の力ではどうすることも出来ないものである。

故に現界ど霊界を統御される天皇を信ずる者は生きるためのあらゆる霊的加護があって目的は支障なく行われるであろう。

後醍醐天皇が笠置山を行在所とされてから、先ず天皇の詔に応じて参内した楠木正成は「正成一人いまだ生きていると聞こえましたら、聖運必ず開けるものとお思い下さい」と奉答し退いたという。

天下の幕府軍を相手に、唯正成一人が相手になって討ち平げるという自信はどこから出てくるのであろうか。

これは後醍醐天皇が世界を太古の天皇中心の時代に復そうとしてお一人で立ち上がられたのと同じく、この時天皇を中心とする分身楠木正成にはすでに無限の能力が与えられたのである。

これまで楠木正成の出自については何一つ確たる証拠がなく、ただ賎しい武人あるいは悪党の一人であったというにとどまっている。

ところが楠木正成は決して賎しい武人ではなかった。

竹内家系図によると、彼は歴とした越中皇祖皇太神宮の神主家の子孫で、密命により皇室守護の大任を負って、河内の山中に子孫を残したのである。

詳しくいうと、楠木正成は皇祖皇太神宮神主家竹内宿弥正系十四代目紀竹内眞麿(西紀五五二年〜七四四年)と妻の田眼内親王(敏達天皇の皇女)から生まれた三男奈麿を祖先として分かれ出た楠木氏の子孫であった。

戦前に伝えられていた様に敏達天皇の御血筋を引く橘諸兄を祖先としているのではなく、敏達天皇の皇女の御降嫁先竹内家から出ているというのである。

だから楠木正成の自筆の書に「従五位上行左衛門少尉兼河内守橘朝臣正成」とあるのは、密令を帯びた家系として正式の祖先の名を名乗ることが出来ず、橘氏の名を借りて名乗ったものであろう。

もし祖先の正しい系譜を明記すれば、必ず皇祖皇太神宮が表に出て、仏教勢力のために神宮が抹殺される恐れがあったからである。

楠木氏がどうして河内の山に進出したかということは、記録に明示されていなくとも大凡の判断が出来るであろう。

帰化人が日本征服の陰謀を企んで壬申の乱を起こしてから皇室は完全に帰化人僧侶の掌中に帰し、越中の皇祖皇太神宮抹殺の運動も激しくなった。

ここに皇太神宮は衰微してしまった様に見せかけて、神主家の竹内氏と共に公に世人に知られぬ様計らったのである。

余談ではあるが、延暦二三年(西紀八〇四年)空海が入唐して直ちに恵果和尚から密教の秘儀をさずかり、中国皇帝の前で日本人の知能を公開して上下を驚かせたことがある。これは、彼が皇祖皇太神宮で釈迦の真髄を会得し、出航に当たっては藤原氏と密議の上唐に渡ったからで、決して偶然のことではない。

しかし空海は皇祖皇太神宮神主竹内赤池久江麿(母は天武天皇皇孫山形女王)との約束で、その後皇祖皇太神宮で学んだことを一切口にしなかった。

日蓮の場合も皇祖皇太神宮において、神主竹内基義と共に「南無妙法蓮華経」の七字を作りこれを世に広めたが、一生の間皇祖皇太神宮で学んだことを口にしなかったのである。

この様にして神宮は表に衰微を装うと共に皇室有事の祭に天皇を守護する目的で、楠木氏を大和の要衛の地に当たる河内の山に派遣した。

そのため、皇祖皇太神宮に蔵されていた兵法書(孫子、六韜三略の基となっている兵法書〉を研究することは楠木氏の使命でもあったのである。

また皇祖皇太神宮は太古から中臣氏や忌部氏と祭祀上の関係が深く、特に忌部氏の一族は太古皇室が高山にあった頃から山に住むサンカとなり、長らく陰にあって皇室の守りとなっていた。

楠木氏は河内に住み着くとサンカを支配し、これを皇室の用事に役立てていただけでなく全国のサンカの動向に通じ、居ながらにして日本全体の動きを知ることが出来たのである。

ここまで考えることによって、始めて楠木正成の一人で幕府を討ち平げようとする気魄を理解することが出来るであろう。

故に楠木正成の笠置山で天皇に謁見を賜うたのは先に日野俊基から知らされていたからで、天皇は笠置山に陣取られる当初から楠木正成を深く信頼されていたものである。

さて笠置山では、先に陽動作戦の叡山の戦いで勝利を得たため幕府に反感を持つ武士が多く集まってきた。

天皇が笠置山に陣取られたというので、六波羅軍数万が笠置へ向かう。
また天皇挙兵の報が鎌倉に伝えられると、幕府は大軍を差し向ける。この時の大将は、大仏貞直・金沢貞冬・足利尊氏等であった。

なお足利尊氏は当時名を高氏といったが、建武中興に大功があったというので、天皇の御名の一字尊の字を頂いたものである。

幕府の大軍が京都に接近した時、幕府は使者に命じて光厳天皇を立てさせ、二人天皇の併立を画策した。

幕府の大軍が笠置の攻撃に加わらぬ内に六波羅軍は機略をもって堅城を陥落させ、後醍醐天皇はわずかの供の者と共に笠置をいで山道を逃げ隠れられる。

供の者は万里小路藤房と同季房らであった。後の話ではあるが、この二人は天皇が吉野から越中の皇祖皇太神宮へ落ちてゆかれる時も、万難を冒して常陸に至り遂に崩ぜられる時までも、よくお供をした者で、楠木正成に劣らぬ忠誠の士といわなければならない。

さて、天皇が捕えられ宇治の平等院に監禁されると足利尊氏から神器の剣璽を引き渡す様に要求されたが、天皇は応じられなかった。

天皇は六波羅南方の館へ移され、ここでも剣璽の引き渡しを拒んでおられたが、遂にやむなく光厳天皇へ引き渡しの儀が行われる。

しかしその頃、楠木正成が赤坂にいるという情報だけで、大和十津川方面へ消えた護良親王の行方もまだ分からなかった。

後醍醐天皇が幕府の手に捕えられながらも、神器の引き渡しに対してかたくなに応じられなかったのは、一に楠木正成が生きているという絶大の御信頼感があったからである。

元弘元年(西紀一三三一年)十月、楠木正成が赤坂城にこもり、護良親王を奉じて幕府の大軍を迎えることになった。

勿論天皇が敵手に落ち、尊良親王も捕えられて、何のために戦うのか前途に希望がないはずの状態にありながらも楠木軍五百の兵がびくともしなかったのは、兵士一同が天皇を中心とする正成の誠心に統一されていたことを物語っている。

ここにも天皇の分身として類をもって集まる原理が働いていた。

楠木正成を中心とする一団の兵士は、全人類の永遠の平和を志される後醍醐天皇の分身であるが、これは、自分が救われるために全人類の救済を願って宗教戦争に従事するのと、形は同じくとも中味は真逆様である。


「後醍醐天皇〜竹内文書」竹田日恵 著 より