日本の古代史の謎の一つに「神代文字」がある。
この神代文字は由緒ある神社に使用されていたり、古文献が発見されていたも「偽物」とされているのが現状である。。
日本には漢字が入る前までは、文字がなかった・・・。本当にそうなのだろうか・・・・

神代文字否定論 神代文字はあったか? 神代文字は存在したのか
日本で発見される古代文字 伊勢神宮の神代文字 山田孝雄博士の否定論について
明治の国学者によって忙殺された古代日本文字 五十音と神代文字 神代文字は存在した!!


神代文字否定論

下記の記事は、ネット上に流れている神代文字否定説の主なものである。

神代文字は僞作
「支那から漢字が傳來する以前、日本には既に文字が存在した」とする説がある。『釋日本紀』(卜部兼方)には、龜卜(占ひ)の辭を記す事が神代の頃からあつたのではないかと云ふ説が述べられてゐる。

◎「一方、『古語拾遺』(齋部廣成)、『筥崎宮記』(大江匡房)では、日本には固有の文字が存在しない、と書かれてゐる。」

◎「現在の國語學では、「漢字以前に、日本人は固有の文字を持たず、使つてもゐなかつた」とされてをり、それが定説である。」

◎「神代文字と呼ばれるものは多くの種類があり、それらについては諸説ありますが、神代文字の多くは江戸時代以降に作られた偽物とされています。漢字伝来以前になんらかの記号として存在した可能性はありますが、「文字」と呼べるものだったのかどうかは疑わしいようです。たとえそのような「文字」が存在したとしても、○○○○氏の言うように、ムー大陸で作られ、世界中のすべての文字の起源として存在したという可能性はほぼゼロでしょう。」

◎「漢字の渡来以前に、〈神代文字〉と称する日本独特の文字の存在を主張する説があるが、信用し難い。それらのいう文字とは、ほとんどが江戸時代に作られたもので、とうてい神代のむかしに存在したなどと考えることはできないのである。もし日本に固有の文字があったとしたら、歴史が示すように、どうして苦心して中国の文字を受け入れ、その使用に工夫をこらしただろうか。まして仮名など作る必要はなかったであろう。」


申し訳ないが、これらの諸説にはまったく説得力がない。
何故、偽物が由緒ある日本の古い神社で使用されているのだろう・・・・

日本の神社の頂点・・・伊勢神宮の神宮文庫には神代文字で書かれている、奉納文が数多く奉納されている。

また、古史古伝に使用されている神代文字で世界中の古代遺跡にある古代文字が読めるのは何故だろうか?

神代文字否定論には、考古学上の否定説明がまったくないのである。


神代文字はあったか?

かつては「応神天皇の時代に百済来た阿直支と王仁が諸典籍をもたらした」ことが日本の文字使用の始まりであるとされていた。しかし、漢や魏に使者を派遣した王者のもとに漢字が読み書きできる者がいなかったはずはない。ここで問題になるのは、漢字の採用以前に、日本列島ではどんな種類の文字も一切使用されていなかったのか、ということである。ここで注意すべきことは、文字といっても意思の伝達や事実の記録だけが使用目的ではなく、最初のころには願い事を神に捧げる呪術的な用法もあったということである。前節で見たように、日本で石に刻まれたペトログラフが無かったとは考えにくいと思う。

第二編で紹介する『竹内文書』は、その由来記によると、今から一四七〇年前に武内宿禰の孫が神代文字で記された太古の記録を漢字になおしたものであるという。また、同じく『上記』は一二二三年に豊後の大友氏が、収集した資料編集して当地で用いられていた「豊国文字」で記録したものであるという。その他、『秀真伝』や『三笠紀』、あるいは『物部文書』などの「古史・古伝」にも、太古の日本で使用されていたという文字のことを述べている。それ以外にも、神社のお札や石碑にも漢字と異なる文字が記されている。これらは俗に「神代文字」と称せられており、平安時代から江戸時代まで、新井白石や平田篤胤らを含む多くの学者からその存在を認められている。

こうした「神代文字」というものは、ほんとうに太古の日本列島で用いられていたのであろうか? この問に対しては、国文学者は「問題外である」と真っ向から否定している。その理由として、これらの「神代文字」はすべて五十音図に即していることがあげらている。それというのは、一九〇九年、橋本進吉博士が『万葉集』や『古事記』の文字使用法を調べたところ、当時はイ・エ・オの発音には甲乙の二種があり上代日本語の母音は八個でありキ・ケ・コ(ゴ)・ソ・(ゾ)・ト(ド)・ノ・ヒ・ミ・モ・ヨ・ロの表記は甲・乙二様に厳格に区別されていたということを発見したからである。このことは、七・八世紀の日本語には、五十音ではなく八十七音あったことを意味しており、そういう区別がされていない「神代文字」は発音の習慣が五母音に変わった平安時代以後に偽造されたものであるというわけである。

この説を説く人たちは、日本語はもともとウラル・アルタイ系の言語であり、かつては「母音調和」という法則に従っていたと考えている。しかし、この主張は、近年、若手の研究家によってあまり説得力のないものであると論じられるようになっている。それというのは、『万葉集』や『古事記』を書いた人は、ウラル・アルタイ系の発音の癖を有する百済系の渡来者から漢字を学び、文字の使い分けの法則を守っていたのに対して、列島住民はもとより、当時でも圧倒的多数の者は、五母音による五十音式の発音をしていたのであり、甲・乙二類の表記分けとは無縁の生活をしていたとするのが当たっているというのである。

つまり九世紀以後の日本語が何の抵抗もなく急速に五十音に変化していることは、一時は大陸の影響を受けていた上代日本語が、本来の五母音に収斂されていったのであると考えたほうが理解しやすいというのである。したがって、「神代文字」の存在を一笑に付して否定するための根拠は失われたことになる。それと同時に「古史・古伝」についても頭から偽造された文書として拒絶して済ますわけにはいかなくなってくる。

また、「神代文字」が後世の偽作であるとするためには、その作成の動機が何であったか説明できなくてはならない。今日のようにマス・メディアが存在しない時代に、人騒がせを目的として歴史を偽造しても意味がないはずである。第一、誰にも読めない書物など作っても何の効果もありはしない。もちろん、反体制的な氏族が秘密保持のために創作したと考えることはできるが、『上記』のように漢字が普及していた時代の豊後の権力者がわざわざ虚妄の文字を創作して史書を記述する必要などありはしない。やはり、その序文にあるように土地に伝えられていた実在の「豊国文字」を使用したと考えるほうが自然である。しかも、「豊国文字」の書体は山窩−−−同族の団結が強い放浪の民−−−が使用していた文字とよく似ている。そして、豊後には多くの山窩がいたから、ヤマトの王権から疎外されていた彼らだけが知っている歴史があり、それを大友氏が資料として採用していたのではないか。また、これらの二つの文字は『竹内文書』が伝える「越文字」とも酷似している。なお、「豊国文字」の「新体」は、「古史・古伝」の一つである『九鬼文書』に出てくる「春日文字」とも似ており、両者は同じ系統のものと考えられている。

ともあれ、「神代文字」を一概に偽作と決めつけ、民衆的な遺物にも記されているこれらの文字を、それが「古史古伝」で採用されているから偽作であるとするのは、本末転倒の論理でなかろうか? むしろ反対に、もし、「偽書」を創作しようとした物好きな人物がいたと仮定すると、彼らは民間に伝えられていた「神代文字」を利用した、というほうが現実性のある考え方であると思う。「神代文字」も「古史古伝」も共に偽作であるとして片づけ去ることは、真実の究明を放棄する怠慢な態度であるというより有害かつ危険な考え方ではなかろうか?

「異端から学ぶ古代史」沢田洋太郎・著


神代文字は存在したのか

神代文字がニセモノであるかどうかは、現代においても議論が大きく分かれている。しかしこの問題については、少なくても江戸時代から論争が繰り広げられてきた。まず新井白石が、出雲大社や熱田神宮に神代から伝わったとされる文字が残っていることを指摘。貝原益軒や伴信友は神代文字の存在は否定、これに対し復古神道の巨星、平田篤胤は全国にある神代文字を調べ、『神字日文伝』で対馬の阿比留家で発見された韓国のハングルに類似した文字とその草書体を「日文」と命名、これを真正の神字(神代文字)と認定した。

ここではこれ以上、この議論を展開するつもりはない。だが、伊勢神宮をはじめ日本各地の神社に「神代文字」と呼ばれる古い文字で書かれたお守りや札や奉納文、神璽が伝わっていることや、全国各地に神代文字と思われている文字が刻まれている巨石が残っていることからも、神代文字がまったく存在しなかったと結論付けるのは暴論である。

神代文字の証拠というわけではないが、与那国にはカイダ文字が、サンカ(山窩)と呼ばれる山の民にはサンカ文字が存在していた。おそらくアイヌにも独自の文字があったはずだ。神代文字を否定するということは、こうした文字すら否定しようととする動きに似ている。現在の教科書では古墳時代の日本に漢字以外の文字はなかったと教えているようだが、日本探検協会の高橋良典会長が『日本超古代文明のすべて』の中で指摘しているように、<FONT Color="red" >実は弥生時代の鏡や銅鐸、縄文時代の土面や釣手土器、文字石などに神代文字らしき文字がはっきりと刻まれている。

近代の歴史を見ても、征服者は被征服者の言語や文化を事実上抹殺、あるいは破壊してきた。南米大陸のインカ人や北米大陸のインディアン、オーストラリア大陸のアボリジニ、日本のアイヌなど例を挙げればきりがない。征服者にとって、被征服者が独自の文化を持ち続けることは都合が悪いからである。その都合の悪いことの一つは、歴史を被征服者の側から語られることだ。

漢字以外の文字がなかったなどとするのは、明らかにそうした意図が働いているように思われる。記紀が書かれた当時、時の征服者にとって原日本人による神代文字で書かれた歴史が存在していては、とにかく都合の悪かったことは容易に想像できる。神代文字はそうした観点からも今後、考察されていくべきだろう。

「竹内文書の謎を解く」布施泰和・著


日本で発見される古代文字

「中国から漢字が伝えられるまで日本には文字がなかった」と、日本人の大多数はそう信じ込んでいる。義務教育の小・中学校はいうまでもなく、高等教育の場でも繰り返し、そう教えられてきたからだ。

しかし、平成三年七月、佐賀県大和町の東山田一本杉遺跡から出土した弥生前期末の甕棺から、「古代南インドの象形文字」が発見された。
日本人考古学者が見逃していたものを、たまたま調査に訪れた、インド人考古学者ポンナムバラム・ラグパティ博士が発見したものだ。
意味は不明だが、甕棺の側面に、縦十五センチ、横十九センチの大きさで十字に引かれた線の先端が熊手状の文字が描かれていた。ラグパティ博士は「紀元前三世紀頃まで南インドの土器に描かれていたグラフィティという古代文字と同じだ」と語り、驚きの声をあげた。

しかし、この程度で驚いてはいけないのだ。紀元前二五〇〇年から紀元前三〇〇年頃に使われていたと思われる古代シュメール文字やバビロニア文字、ギリシャのピロス文字、中国の甲骨文字のルーツと思われる文字が、西日本一帯において、続々と発見されているのだ。(日本ペトログラフ協会調べ)

つまり、インドどころの騒ぎではなく、超古代の日本人が世界各地と交流していた形跡が見られるのである。ただし、それらの発掘物が、世界各地から古代文化を伝えた部族が集団で日本列島で渡来し、それぞれのルーツを伝える文字を岩に刻み込んだものなのか、逆に日本で発明された古代文字が世界各地に伝えられ、定着し完成するに至った形跡をしめすものなのか、この辺については今のところ定かではない。

いえることは、いずれの文字も、超古代文明の遺産とされる巨石文化遺跡の大岩に刻まれた状態で残っているところを見ると、紀元前二五〇〇年どころか、その起源はずっと古くまでさかのぼる可能性があるということだ。
そして、日本列島が、古代文字の発祥の地だった可能性があるということなのである。


伊勢神宮の神代文字

神代文字で書かれた実例を紹介しましょう。
日本の神代文字が実際にはどのように使われていたかを示す一つの好例は伊勢神宮の神宮文庫に収められている奉納文です。
伊勢神宮に現存する奉納文は、これまで確認されたものだけで99点あります。
その大部分は藤原鎌足や稗田阿礼、和気清麻呂、菅原道真、平将門、源義経、木曽義仲、後醍醐天皇といった歴史上名高い人物で占められている。また「古事記」をまとめた太安麻呂や「日本書紀」の編集者・舎人親王なども名を連ねています。

伊勢神宮に奉納されている神代文字
稗田阿礼 稗田阿礼 後醍醐天皇 平将門
菅原道真 源頼朝 源義経 源義経

    

これらの奉納文は、奈良時代から江戸時代中期にかけておよそ1000年年間にまたがり、それぞれの時代に伊勢神宮へ参拝した著名な指導者たちが、さまざまな思いをこめて納めた大変貴重なものです。

漢字が使われていた時代にどうしてわざわざわかりにくい神代文字を使用したのか不思議に思われるところだが、宮司によると、太古日本の神々は外来の宗教と外来の文字を嫌われたので、神前への奉納文は神々の好まれる神代文字で書かれるのが憤例だったという。
それはともかく、これらの奉納文は、神宮文庫が「かみのみたから」として大切に保管されてきたもので、現存のものは明治初年まで伝えられた原本の写しを下敷きにして、朝彦親王のスタッフが新しい美濃紙に、その輪郭を丁寧に写し取ったものといわれている。写しだから本物ではないと言ってしまえば「古事記」や「日本書紀」を始め、およそ写し取って保管されてきた古文書の類はすべてニセモノということになってしまうでしょう。

伊勢神宮の奉納文は、アヒルクサ文字とイヅモ文字で書かれたものを主体とするが、この他にもトヨクニ文字や北海道異体文字として学会に報告された古代文字があります。

また、宮崎市の住吉神社にも神代文字で書かれた棟札がいくつも現存します。これは伊予文字という神代文字で書かれていて、最古の物は鎌倉時代の棟札だそうです。

さて、以上のように、古代の日本には漢字伝来以前に固有の文字がありました。そして、その伝統が生きているからこそ、由緒正しい伊勢神宮の奉納文や碑文が現存すると思うのであります。

「伊勢神宮の古代文字」より


山田孝雄博士の否定論について

この伊勢神宮の神代文字は、神宮文庫の責任者であった山田博士によって偽物と否定されています。しかし、この論文には矛盾している点が多く、多くの神代文字研究家が反論しています。そのいくつかを掲載します。(HP制作者)

山田孝雄博士の否定論に反論する。

本書で紹介した神宮文庫の「神代文字」の写真をひと通りごらんになったかたならそれらの中から歴史の重みというか、実在する一人ひとりの登場人物の気配とでも云うべきか、とにかく微妙な真実感を感じとられたと思う。これらの染筆群を、根拠のない偽作物と考える人は、まずないのではなかろうか。

ところがおどろくことに、世に有名なある学者はこれらの古代文字を目して「偽作」と断じているのである。その学者は神宮皇學館学長山田孝雄博士で、博士は昭和28年「芸林」2月、4月、6月号誌上で、「所謂神代文字の論」を発表し、漢字以外に古代文字などというのは一切偽作であると称し、この神宮神字に対して詳しく論じている。

山田博士はすでに故人であるが、私も有縁によってこの神代文字を前面複写し、しかも2年余りを費やしてその解説を果たしてまた以上、博士の所論をそのまま見過ごすわけにはいかない。また博士の世間に対する影響力が大なる故、その論をそのまま放置することは、古代文字実在に対して、事実に反する観念を生む結果をもたらすと考えるので、簡単ながら反論を加えておきたいのである。

山田孝雄博士は皇學館大学の学長をされ、神宮文庫の館長も務めており、この神代文字を調査した結果、「文字は墨で雙鈎にした所謂籠字にしたもので(中略)、その紙質、墨色を見るに明治の初年頃を下るものであろうが、それを下ることのないのは明かである」として、それらを偽作物であると断じている。

山田博士の云うように、たしかにこの「神代文字」は明治初年頃に、新しく書かれたものであろうことは私も認めるのである。しかし、あの文字が新しく書かれるには、元のものがなくてはならない。それを無視して新しく書かれたから、それは偽作というのは論が粗雑すぎはしないだろうか。

私は昭和48年末から一ヶ月余にわたって、これらの「神代文字」を書写したが、これを山田流にいえば、昭和に書いたから偽作だということになってしまう。しかし、私はもとのものがあって、その上に透明な紙をのせ原字を忠実にフチどりしていったのである。私は忠実な「書写し」を行ったが、「偽作」はしていない。根拠のないものを、全く新しく作り出したわけではないのである。

山田博士はさらにいう。「これらは何を基にして写したのかも分からぬ。とにかくこれらは神宮教院で製したもので・・・・・」と。山田博士は偽作と称しながら、「何を基にして写したのかも分からぬ」と、ここでは原字の存在がなければ出来ないはずであることを、暗に物語っているのである。語るに落ちるとは、このことではなかろうか。

また山田博士は「神宮教院で製したもの」と書いているが、もしそれらが偽作というならば、神宮教院ではこのような大がかりな偽作を許したことになる。ごらんいただければわかるように、染筆者名は58名になっており、書体なども千差万別といいたいくらいであるから、偽作にたずさわったものが一人や二人では済まないことになる。

「神宮百年史」(神宮司庁発行)によれば、明治政府の政令により明治5年に大教院が設置され、教宗には当時総理大臣以上の格の朝彦親王が任命されている。伊勢神宮が聖域として、いかに厳重な監督下にあったかを考えれば、その中の大教院で大がかりな偽作集団が活動するなど不可能なことであるし、また何のためにそれまでして古代文字の偽作をしなければならないのか、およそナンセンスとしかいいようがない。

山田博士はまた、自分の論文は「伊勢神字を読んだ結果」書いたものだと云っていたがもしほんとうに原文を読んだとすれば、その解読の力は一体どこから得たというのだろう。古代文字は長年の研究がなければ、とうてい解読など出来ぬものである。げんに私は10年間も古代文字を研究し、しかも2年以上かかってなおかつこれらの伊勢神字の全部を、完全には解読できなかった。同じ古代文字でも、一人ひとり書きぐせというものがあって、「神字日文伝」の模範字体を読むようなわけにいかないのである。察するに山田博士は、伊勢神字の二十八葉に符着してある、漢訳の文字を読んだに過ぎないのではなかろうか。本文を読めずに読んだふりをしたとすれば、それは甚だ学者らしくもない態度である。またもし事実全部読んだとすれば、それだけの研究をした経験があったことになり、研究対象になる古代文字の存在を否定するわけにはいかないだろう。

いずれにしても、山田博士の論文は、まことに矛盾鐘着のはなはだしいもで、それは自己将来の「古代文字否定論」を、無限にも押し通そうがためであったとしか考えようがない。

私自身はこれらの九十九葉の染筆に接して、そこにいかなる作為をも感じなかったのである。九十九葉の作品が九十九の名ではなく、58名の染筆者となっているのも自然さを感じる。一人の人物が3点、4点の作品を書いていたり、また藤原秀郷は218字、藤原忠文のごときは274字という長文を、終始整然とした書体で書いているなども自然な感じである。

偽作のこんたんなら、一人の人物名で何点も書くことや、教えて長文の作を遺すなど無意味な労力でしかないだろう。ましてわざわざ無署名の偽作などを作ることが、果たして何の役に立つというのだろう。

しかも書体や筆勢はそれぞれ異なっており、永年にわたって熟練した人の筆先きもあれば、雄渾とも云えるものあり、また女性はいかんも女性らしく、あるいは書き馴れぬたどたどしい文字もあるなど、一人ひとりの特長は今もなお歴然としている。何度か書き写された末の明治の染筆でさえ、そこにそれぞれの人物の特長が遺っているくらいだから、原染筆はどんなに生き生きしていたかとの想像すら刺激されるのである。

また現存の染筆の真実味を感じさせるのは、文字の欠落や虫食いの跡がそのまま空けてあることだ。以前のものが時代を経たため、虫食いになり字の欠けた部分があったのを、そのまま忠実に再現したことが、そこから素直にうかがえる。私も模写に際しては、そのまま写しとったものである。

山田博士の偽作論に対する反論はまだいろいろあるが、最後に二つだけあげて終わることにする。その一つは他でもない染筆者の中に太安万侶、稗田阿礼、舎人親王の名前のあることだ。しかも、この三人は「古事記」が朝廷に上納される五年前に、これらの染筆を奉納したことがその署名年月日からわかるのである。

記・紀以前に、日本固有の文字はなかったというのが一般の常識である。偽作しようというほどの者が、その常識を敢えて犯して、しかも記・紀成立の五年前の日付で書くなどということが考えられるだろうか。偽作論がいかに無根拠なものであるか、この一筆からだけでも知られるのである。

さらに山田博士はこれらの神代文字を許して「いわば無邪気な気まぐれなすさびともいふべきもので・・・・」などと書いているが、染筆者の中には後醍醐天皇や後亀山天皇の御名まで見えるのである。天皇の尊厳がかってないほど説かれた明治時代に、はたして天皇の御名を使ってまで「気まぐれなすさび」の偽作を書く勇気の人物がいたのだろうか。

しかもそれを神宮教院の中で実行し、神宮文庫に保存するような狂気じみた集団が存在し得たのであろうか。そのようなことは、戦後の日本ならいざ知らず、当時の情勢下の日本では考えられることではない。年輩からいっても、また神宮文庫の館長という職にあったこともある点から考えても、明治という時代がそうしたことの不可能なことを十分承知のはずの山田博士が、なぜこのような軽率としか云いようのない暴論を書いたのかまさに地位と権威を笠にきたゴーマンな処置というべきである。


「伊勢神宮の古代文字」
円代 貞太郎
小島 末喜  共著 より


明治の国学者によって忙殺された古代日本文字

「奈良時代以前にわが国独自の文字があったか、無かったか?」という論争の際、よく引き合いに出されるのが、伊勢神宮の奉納文や竹内文書や九鬼文書、上記、神皇記などといった文献などの他、秀真文字、岩戸蓋文字、上記、豊国文字、阿比留文字、出雲文字、阿波文字などの各地に伝えられた文書に使われていた文字である。

それらは昭和48年に伊勢神宮が公開した神宮文庫資料によるもので、私も親しい神宮関係者からそれらの幾つかを複写で分けてもらった。

稗田阿礼や平清盛、源頼朝などの奉納文もその中にあった。それらの解説は、豊国文字や阿比留文字、阿比留草文字などのコード表があれば誰でも出来るものである。

試しに私は高等学校の考古学クラブの生徒たちにコード表を渡して解読させてみた。彼らはすぐ読んだ。また、福岡県東部老人大学や大学院の歴史講座にそれらを持ち込んで、同じくコード表を配って解読を試みてもらったのだが、これも二百人の受講者の九割が完全に読めた。次に揚げる資料を読者もコード表使って試みられると良い。皇室の祖廟であり、時代が変わっても、いわば日本国民精神の中枢に何千年の間神聖な神社として認識されていた伊勢神宮に奉納した歴史上の人物が、当時存在しない文字を使ってそれらの文章を納めたとは考えられないことから、「伊勢神宮が公開した奉納文は先ず偽物ではなくて本物である」と認識すべきものであろう。

そうでなくては、伊勢神宮の存在自体が怪しいものと認識されなければならない。その論理がわかっていたのか、いなかったのかは知らないが、伊勢神宮を学問的に擁護すべき立場にあった神宮皇學館大学の学長・山田孝雄博士は、昭和28年に、「これらの奉納文は紙質、墨色から見て明治初年頃を下るものであるから、書写年代が新しいと見られ、偽物である」と断定した。

その上、「これらは何を基にして書写したのかもわからない。とにかくこれらは神宮教院で製したものである」と言っているから、山田博士の論理からいえば、伊勢神宮がそれらの奉納文を故意に捏造し、その作業は明治政府の政令によって設置された大教院(教主は皇族の朝彦親王殿下)が実施したということである。つまり、政府機関と皇族が作為的に皇室祖廟の奉納文を歴史上の人物の名をかたって、でっちあげたという論理になる。もし、その山田孝雄博士が神宮皇學館の学長兼神宮文庫の館長としてそのように言いはったのであればそれはそれで良い。その論理は伊勢神宮の虚構性を傍証するものとして国民は受け取ることになる。果たしてそれで良いのだろうか? 今は故人の山田博士がもし存命中なら、「いや、それは困る」と撤回するのは明白である。元来、神社や寺社に奉納するのに、言い換えれば神仏に奉納する文書をわざわざ捏造する人はまず居ない。仮にいたとすれば、それなりの強烈な意図があってのことだ。

故人の論理を追求しても仕方のないことであるが、山田博士は式年の故事と伝統を考慮に入れての判断であったのかと疑うものである。日本古代史について学会の定説として継承されて来ていた「漢字渡来以前の日本には文字はなかった」という国学と史学の基礎を根底から覆されることのみを恐れる余り、「上代にはいわゆる神代文字はなかった」ことを強固にするために、うかつにも伊勢神宮の式年の故事と伝統を考えに入れ忘れたとしか思えない結論であると私は判断する。

一定期間をおいて神殿を建て替え、ご神体を移す「式年遷宮祭」は、伊勢神宮では今は20年ごとに行われている。その式年遷宮祭では、神殿はもちろんのこと、祭器も神具もすべて新しいものに変えられる。そのために伊勢神宮の宝物や祭器、神具、衣装などを専門に復元制作する職人は、古代からの技法を世襲して守り伝えてきた。

神剣も器も神官の衣装も履き物も、古代さながら新しく作る必要があるため、素材の選別、砂鉄の採取、繊維の収集と紡錘、木材の伐採に至るまで有色故実の業が不可欠であった。そのおかげで、日本古来の文化が守られて来たといえるのである。

従って、山田博士の言う「明治以降に大教院が複製した」ことを容認したとしても、「その書写は捏造のためではなくて、式年遷宮のためでもあった」と理解すれば済むことである。
つまり、奈良、平安の時代に奉納された物を、式年遷宮のために復元再製したのだ。従って、その紙質が仮に新しいと見えてもそのことは奉納文の文字が上代に存在しなかったことの否定論拠にはならない。

ただ問題なのは、紙質や墨色の主観的印象だけでは本当の紙や墨の年代決定は出来ない。紙の繊維については電子顕微鏡による分析やスペクトル検査などの繊維学上の科学検査、墨についてはC14放射性炭素法やウラン元素法、アルゴン酸素プラズマ法などの年代測定法使って精密な年代計測をした上で、山田孝雄博士が判定したのなら納得できようが、単に個人的印象による結論であれば問題が残る。つまり、山田博士の判定は、伊勢神宮の式年遷宮や、それに類したしきたりによる書写行事の無視による独断判定のそしりを免れない。今は式年遷宮は20年ごとであるが、それも世の中が安定してからのことであって、戦国時代や鎌倉、平安、更に奈良時代以前となると、式年遷宮自体が膨大な経済支出と労力を伴うものであることから、あるいは百年とか五十年とかの年期の時代もあったことだろうし、まったく数百年の間、何もされなかったこともあったはずである。しかし、そうした事情の想定でさえ奉納文の文字が存在したことの否定論拠とはならない。

言い替えれば、山田孝雄博士は、その学者としての社会的地位と名声を利用して、科学的根拠なしに神代文字、漢字以前の日本の文字を否定し、抹殺しようといわれても仕方がないのである。

山田博士の意図はとりもなおさず、日本の国語学会や史学者の意向でもあった。漢字以前に日本の文字があったのでは古事記、日本書紀の否定につながり、記紀を国体の原点とする「万世一系の天皇を奉じる日本」という史観を維持するのが困難となって困るという観点からである。もっとも、その危惧は偏狭な学者の憶測に過ぎない。記紀以前に文字があって、その文字で記録された記紀以前の歴史書があったからと言って、それは決して天皇家が長い歴史を通して国民の尊崇を受けて来たという事実を否定するものではないし、国体の尊厳を汚すものでもない。

むしろ、記紀以前の遙か数千年前から神代文字とされるものがあって、そうした文字で記録された記紀以前の歴史書が各地に伝承されていたもの参考にし、改廃して編集して作られたものが記紀であることを認めることこそ、記紀の存在価値を高めるものだろう。なぜなら、記紀時代に、「一書に曰く」とか、「又ある書曰く」などと数多の記述があり、それらは明白に「記紀以前に同様な記録書があり、それぞれの地方にも歴史書が伝わっていて、それらを参考にして記紀が編集された」ことを述べているのである。

日本の史学や国学がその延長線上にあるうちは、決して本物の科学も日本では進まない。山田孝雄博士を代表とする「漢字渡来以前は日本に文字はなかった」とする学派を一掃し、そうした偏狭かつ独善的な学者や「長いものに巻かれろ」方針の追従学者を追放することから、本物の歴史学や国学が始まるのである。そのことはわかってはいても、物証としての「漢字以前の文字」の証明を具体的に示すことが出来ないという理由で、これまで多くの学者が山田孝雄学説に異論を唱えなかったのだ。

「神字日文解」吉田信啓・著より


五十音と神代文字

日本の国文学者や知識人の多くは、日本に固有の古代文字があったことを、頑迷に否定し続けているが、古くは斎部広成が『古語拾遺』の序文で「上古の世いまだ文字有らず」(807年)と記しているし(その子孫忌部正通は逆に、あったという)、本居宣長も「日本には仮名の成立以前に漢字以外の文字は存在しておらず」と述べていることで、現在の学者もこれに倣って、必要以上の探求を避けている。

ちなみに、近来もっとも有名な神代文字否定者は、山田孝雄・狩野亭吉・橋本進吉の三博士であるが、橋本は、五十音については古事記や万葉集を調べた結果、八母韻−六十一音節を提唱し(清音のみ)、古代文字五母韻説を否定している。その後、日本言語学の権威・松岡静雄が「上古の母韻はア・イ・ウの三音であったが、伝説が語り継がれるようになった頃の標準語には、既に五韻が備わっていた」(日本言語学『音韻』刀江書院)と見解を述べ、古代史研究家・吾郷清彦も「八母韻説は全くの虚構といわざる得ない」と言っている。

なお、狩野亭吉は、偽書とされている竹内古文書に登場する各種の「古代神代文字」の否定論者である。

また、山田孝雄氏(神宮皇學館の元学長)の神代文字否定説も、今の学会に踏襲され続けているが、奇妙なことに矛盾と思える正説を述べている著書がある。その『五十音図の歴史−第一巻』によれば−
「五十音図は梵語(悉曇文字)から来たものではなく、まったく日本独自のものであり、神代文字の出所も悉曇文字からのものではない・・・・略・・・・五十音図は、宇宙間の音譜そのものの合理的説明としての、根本原理を示したものであるともいはるる・・・・かような図表を按出した我ら祖先の偉大なる頭脳を讃嘆せずに居られない」

この見解をふまえれば、山田博士は何かを隠しているとしかいいようがない。また、神代文字(漢字以前の)を否定させる圧力があったことも考えられる。


さて、ここまで述べてきた五十音論議が、これ以上紙幅を増やさないためにも、次の事実を挙げて終わりとしたい。

イ)今から千三百五十年ほど前、大化の改新(645年)白村江の戦い(663年)の時代に、日本固有の文字と文化、先住有力氏族の記録がすべて消滅させられた(王家のものも)。

この主犯者は、白村江の戦いで日本海周辺を占領した唐(中国)の軍隊と首謀者である。この中国の占領支配は、『日本書紀』天智天皇関係記事に証明されている。(669年には2000人の中国占領隊が活動)。

ロ)以後、これらの恐るべき力が日本の古代文字を抹殺し、奈良時代以前の歴史を封印した。いわゆる漢字の呪縛が開始された。(イ・ロ=高橋良典・漢字文化に消された事実/歴史読本91・3を筆者が補足す)

ハ)奈良以前に固有古文字があった証拠として、高橋良典氏は『日本書紀』欽明天皇二月三月の条を、学会が見落としていることを指摘している。

帝王本紀に、多に古き字あり。撰集の人しばし遷り易はること経たり。後の人習いて読むに、意を以て刊り改む(故意に修正せざる得なかったの意)。伝へ写すこと既に多にして、遂にたがひまよふこと致せり(筆写伝授しているうちに混乱を招き、元の形体がそこなわれた)。

ニ)山田孝雄の奇妙な説を裏づけるものとして、謎の国学者で神道家のM氏の論述を紹介して、ここまでの五十音義真相の締めくくりとする。

ア行で世が開いて、カ行で神々が出現し、サ行で作物がつくられ、タ行で戦いの歴史となり、ナ行で何でも凝った文明となり、ハ行で繁栄への知識を広め、マ行で真と魔、聖と俗の葛藤、ヤ行でやっと神のご計画わかるとも、ラ行で終末の乱れが激しく、荒々しい天変地異が起こり、その試練を経て、ワ行ですべてが和す世界になる

伊勢神宮拝礼の帰りに霊示を受けたそうだ。○○氏は個人。

「幸運を招く言霊姓名判断」坂口光男・著


神代文字は存在した!!

ここで改めて考えてほしい。一体、まったく文字を使ったことも、読んだこともない人々が、ある日、漢字が入ってきたからといって、即座に漢字を読み書きでき、漢字をつかえるようなるのだろうか。いくら日本民族が遺伝子構造から見ても優秀な頭脳を持ち、文化の取り入れに長けた民族だとしても、それまで全く文字をしらない者がいきなり文字を使えるようになるはずはない。考古学者や国語学者のほとんどが一様に「否定」し、「後世に作られたものだ」と言い張る「神代文字」群が、現在わかっているだけでも伊予文字、節墨文字、豊国文字、阿比留文字、秀真文字、守恒文字、神山文字、アイヌ文字などの四十数種類の文字がそれぞれの地方にあって、それらを人々が知っていたからこそ、漢字が日本に入り、それを近畿大和王朝が採用し、統一国家としての日本で国字に制定した時点で、有識人を中心に極めて早い時期に普及し、地方にまで波及したもの考えるのが筋であろう。

記録に残るものとしては、例えば伊勢神宮や宇佐神宮などに奉納されている奈良時代から鎌倉時代にかけての古文書に、稗田阿禮、和気清麻呂、菅原道真、源頼朝など、それぞれの時代の著名人の手になるという書がある。それらを見ると、ちょうど欧州の知識人にとってラテン語を読み書きできることが教養を示すバロメーターであったのと同じく、漢字が導入されて普及した奈良、平安、鎌倉のそれぞれの時代にあっても、当時のエリート達
は日本古来の神代文字のどれかを使いこなせることが地位に伴う要件であったことが分かる。

ところが、時代の進展と共に、次第に漢字や平かな、カタカナが国字となって定着し、為政者達も日本古来の文字の使用抑制する手段を講じたため、それぞれの地方固有の文字が公的に使われることがなくなり、せいぜい古い神社などのお札や記録に私的に使われるだけとなり、文字の歴史の上から存在を薄れさせられていった。しかし例えば、山窩などの日本古来の伝統と文化を頑なに保持する文化集団によって、それらの日本固有の文字は維持され、それぞれの地域で保存されたのである。

「神字日文考」吉田信啓・著