ここでは聖書のイエスではなく、異端史におけるイエスや聖書外の資料を掲載します。

真実のイエスの姿が見えてきます・・・

山根キク氏の著書より イエスの謎 イエスの弟 外典が伝えるイエス自身の告白
矛盾に満ちた4つの福音書

キリストは日本で死んでいる

「キリストは日本で死んでいる」という驚天動地を敢えて行う根拠は、単に私の想像や捏造だけではなく、キリストの生い立ちに疑問をもった私の史書や古文献の渉猟によって獲ち得た史実に基づくものである。十九世紀にはフランスで「キリストの遺跡が印度にある」と発表した学者がいたが、彼もキリスト三大教義を信じなかった人であろう。

キリスト教では、教徒となる儀式に際して、

一、処女マリアの懐胎

二、キリストの十字架上の死による罪の犠牲

三、そしてキリストの復活


の三つを信仰する宣誓を求める。この三つが他の宗教から攻撃される点であるが、二十世紀の科学時代に心からこれを信じられる人がいるであろうか。キリスト教の神学もこの三つの教義が母体となっているが、これが今や史実の面から覆されるときがきたのである。


「キリストは日本で死んでいる」山根キク 著 より


イエス・キリストの謎

†「聖書に忠実」vs「聖書にないイエス」

「パッション」とは、イエス・キリストの受難の意味だが、映画「パッション」は文字通り、イエスが血みどろになりながら十字架刑にかかるまでを再現≠オた。この映画は全米公開前から、ユダヤ人団体が「イエスの死の責任がすべてユダヤ人にあるように描かれている」としてアメリカ各地で抗議デモを行う一方、ある有名なテレビ伝道師が「この映画は一生分の説教と同等の価値がある」と絶賛するなど賛否両論が起こり、世界の注目を集めた。

かたや、2003年3月にアメリカ本国で発刊された小説『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著)は現在も、世界各国のベストセラーに入る息の長い人気を保つ。

同書はパリ・ルーブル美術館での殺人事件をきっかけに、聖書で描かれたイエスとは異なる「真実のイエス」の姿が解明されていくミステリー小説だ。

その秘密を解く鍵が、ルネッサンスの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチのフレスコ画「最後の晩餐」。イエスの右隣に座る人物が通説のヨハネではなく、マグダラのマリアであり、しかも、彼女はイエスの妻だったというのだ。

†「イエスに妻!?」めぐり大論争

問題は、著者ダン・ブラウン氏がまえがきで、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と宣言≠オたことだ。

映画「パッション」を絶賛し、観客動員にも一役買ったアメリカのキリスト教会も、同書がヒットするにつれ、黙っていられなくなった。「キリスト教の正統性に対するあからさまな攻撃だ」と猛烈に反発、ホームページ上での反撃や反論本の出版が相次いだ。


†揺らぐキリスト教2000年の歴史

そんな大論争が起こるのも、イエスの生涯が多くの謎に包まれているためだ。聖書は30歳から3年間、福音を説き、十字架にかかり、救世主として復活するまでのイエスの歩みを記録しているが、それ以外ほとんど明らかにしていない。

それというのも、紀元4世紀、聖書が編纂された際、イエスの生涯を記した数千に及ぶ文書の中から、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書だけを採用し、これ以外は「異端」として禁書にされたからだ。

ところが、こうした異端福音書を含む「ナグ・ハマディ文書」などが20世紀に相次いで発見され、その研究が進んで「聖書に書かれていないイエス」が次々と明るみに出されてきた。こうしたことから「真実のイエスを知りたい」という欲求が世界的に広がり、その主張を取り入れた『ダ・ヴィンチ・コード』が多くの読者を得た形だ。

「パッション」に象徴される聖書に忠実なイエスと、『ダ・ヴィンチ・コード』などが描く聖書にないイエスの、どちらが真実≠ネのか。「聖書のイエス」以外はあり得ないとされてきたキリスト教社会では、後者が事実だとしたら、キリスト教の根幹にかかわる大問題となる。改めて「イエスとは何者なのか」を問い直す動きが世界に広がったという意味では、キリスト教2000年の歴史を揺るがす大事件≠ェ起きているのである。

いま世界中の人たちが知りたいと願うイエスの生涯の謎を探った。



1.イエスの生誕は「処女降誕」か、「正常な夫婦関係から」か?
エッセネ派では、婚前妊娠を「処女が身ごもった」と叫んだ


†衝撃の発見「イエスの弟の骨箱」

マタイ福音書には、「この人(イエス)は、大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」という故郷の人たちの言葉が記されている。ローマ・カトリック教会は、イエスの神性を強調して母であるマリアまでを「永遠の処女」と信じるため、この「兄弟」たちを「イエスの従兄弟」と教えている。

ところが、この教義を揺り動かす考古学的な発見が2004年4月、イスラエルであった。骨董愛好家のコレクションにあった骨箱に、「ヤコブ。ヨセフの息子、イエスの弟」という衝撃的な銘文が刻み込まれていたというのだ。これがイエスの弟のものなのか、真贋論争が続いているが、イエスに弟がいたことが事実なら、マリアの永遠の処女性だけではなく、イエスの「処女降誕」にも疑問符がつくことになる。


†結婚式のとき花嫁は妊婦だった

イエスや母マリアが属していたユダヤ教エッセネ派という宗派の結婚制度から見ても、「処女降誕」が否定されようとしている。

エッセネ派は修道院に似た共同生活を行う一派で、1940年に死海のほとりのクムランで発見された「死海文書」などによって当時の生活が明らかになってきた。

これによると、男女は仮の結婚式の後初めて性的関係が許され、女性が妊娠三ヶ月になった時点で正式な結婚式を挙げるという慣習をとった。つまり、正式な結婚式のときには花嫁は妊婦だったということになる。

さらには、仮の結婚式の前に数年間の婚約期間が設けられており、その間は性的関係が禁じられたが、ときに禁を破り、妊娠に至るカップルもあった。このとき、体面上、「処女が身ごもった」という言い方をしたのだという。

現代でも、結婚式のとき、新婦のお腹が大きいことはさして珍しいことではない。イエスは、エッセネ派独自の結婚慣習の下で、正常な夫婦の営みの結果、生まれたと考えるべきだろう。

釈尊がマーヤー夫人の右脇から生まれたという伝説を仏教徒が信じていなくても、釈尊の偉大さと釈尊に対する信仰が揺るがないように、イエスの偉大さも、正常な夫婦から生まれたとしても何ら変わらないはずである。


2.イエスは空白の17年間何をしていたのか?
イエスは仏教とエジプトの宗教を現地で学んでいた!


†チベットに遺る古文書「イエス伝」

聖書では、青少年期の17年間のイエスの行動はまったくの空白。ところが、この間、イエスがインドで修行していたことを伝えるチベット僧院の古文書『イエッサ伝』が存在する。ロシアのジャーナリスト、ノートビッチの手によって1894年、世界で初めて公表されたものだ。「イエッサ」こそイエスのことで、同古文書はイエスが14歳でインドに赴き、釈尊の生地カピラヴァストゥなどで仏教を学び、さらにペルシャでゾロアスター教を学んだという驚くべき内容だった。

公表以降、ノートビッチは轟々たる批判を浴びたが、その後数十年にわたって、著名なヒンドゥー教学者や考古学者、文化人類学者らがインド・チベットで同じ古文書やさまざまなイエスの伝承を確認。イエスが仏教を学んでいた可能性は、かなり高いものとなっている。

†エジプトの遺産≠受け継ぐイエス

『エジプトの光とヘブライの火』の著者、アメリカのサウスウェスタン・ミシガン州立大のカール・ルカート教授は、「イエスはエジプトの宗教を学んでいた」と主張する一人。「イエスは子供時代に一時、エジプトに逃れたと聖書にあるが、再びエジプトに戻ってエジプトの宗教を学んだと考えていいのではないか。それほど、イエスの教えは、エジプトの神学的な遺産と結び付いている」と本誌取材に対して語っている。

イエスは、インドやエジプトなど当時の宗教先進国に行き、仏教やエジプトの宗教のエッセンスを吸収しながら、独自の思想を結晶させていったのだ。



3.イエスは「独身」か、「結婚」していたか?
聖書も証言<}グダラのマリアは「伴侶」


†外典が明示するマリアとの関係

『ダ・ヴィンチ・コード』は、外典のピリポ福音書の一節をイエス・キリストとマリアの結婚の根拠の一つに揚げている。

「救い主の仲間(伴侶)はマグダラのマリアである。キリストはほかの弟子の誰よりも彼女を愛し、しばしば彼女に口づけした。ほかの弟子達はこれを見て感情を害し、怒った。弟子達は『どうして私達より彼女をそんなにあいするのですか』とたずねた。救い主は答えて『どうして私は、あなたがたを彼女のように愛せないのだろう』」

ここでマグダラのマリアを表す「仲間」という言葉は「コイノーノス」というギリシャ語だが、「伴侶」という意味もあったという。文脈を素直に読めば、イエスとマグダラのマリアの関係は明らかだ。

†「カナの結婚」はイエスが新郎?

「何も外典ではなくても、正典から二人が特別な関係にあったことは確実に言える」と解説するのは、ピリポ福音書を含む外典のグノーシス文書研究家第一人者、東大名誉教授・荒井献氏だ。

「ヨハネ福音書の『イエス、マグダラのマリアに現れる』という復活の場面では、通常、イエスがマリアに『私に触ってはいけない』と言ったと訳されていますが、実は『すがりつくのをやめなさい』というのが正確な訳です。要は抱きついていたのをふりほどいた。つまり、マグダラのマリアとイエスの関係は、親密なスキンシップが許される関係にあったのです」

荒井氏は、後世、イエスが神の子として信仰されるようになり、特定の女性と親密な関係にあったという人間的な伝承は削除せざる得なかったと推測する。ただ、正典から削除しきれなかった部分がどうしても残ってしまったというわけだ。

ヨハネ福音書にある「カナでの婚礼」の場面もその一つだという説がある。不思議なことに、この婚礼はだれのものとも一切聖書に書かれておらず、「実はイエス自身が新郎ではないか」というのだ。イエスはこの婚礼の席で、母マリアから足りなくなったぶどう酒を追加して用意するよう催促されているが、これが、イエスが招待客ではなく、祝宴を主催する側の新郎だった証拠だという。

イエスはこのとき、最初の「奇蹟」を行い、水をぶどう酒に変えたが、聖書によるば、驚いた世話人たちは「花婿」に対して、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言う。つまり、イエスと「花婿」は同一人物としか受け取れない、というのだ。

外典だけではなく、正典の聖書でさえ、イエスが結婚していた可能性を示し、その相手がマグダラのマリアだったことを暗に証言≠オている。

これはキリスト教の教義からすれば「冒涜」といえるかもしれないが、イエスが結婚していたからといって、「神の子イエス」が否定されるわけではないだろう。


4.「肉体の復活」か、「霊としての復活」か?
異端福音書が記録した「光に包まれたイエス」



†「大いなる光の天使の容貌」

「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』(中略)イエスは、『ここに食べ物があるか』と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」

これがルカ福音書にあるイエスの復活の場面だ。まさに肉体の復活としか読めない。映画「パッション」もこれに従い、肉体の復活を描いた。

これに対して、異端とされる外典はまったく違う形で復活を記録している。

「大いなる光が現れ・・・・彼らに呼びかけて言った『聞きなさい・・・・私はイエス・キリストであり、あなたがたとともに永遠にいるものである』」

「そのとき彼らの前に救い主キリストが元の姿ではなく、見えざる霊で現れた。しかし、主の容貌は、大いなる光の天使の容貌であった」

唯物的ともとれる聖書の復活と、神秘的な外典の復活。なぜこんなに違うのか。


†グノーシス派の霊的な教えと差別化

前出の荒井氏は、「2〜3世紀ごろにローマの教会が中心となって、カトリック教会が成立したが、ローマ教会の教義に最も近かったのがルカ福音書と使徒言行録です。非常に多様性のあるキリスト教の文書の中から、この二つを中心に編集したのが聖書で、その過程で落とされたトマス福音書などが異端の外典となったのです」と解説する。

ローマ教会が唯物的な復活を強調せざるを得なかったのは、彼らが異端として迫害した、霊魂不滅思想など霊的な教えを重視するグノーシス派との差別化を図る目的があったからとされている。

イエスの復活を霊的なものと認める宗教的見地からみるならば、「イエスはこの世で罪人として死んでも、偉大な魂としてよみがえった」と理解できる。



諸宗教を統合する胎動が始まっている


†同時テロを機に信仰を問い直す

聖書に忠実な映画「パッション」と、聖書にないイエス像を示した小説『ダ・ヴィンチ・コード』−−−。二つのイエス≠ヘ、なぜ時を同じくして登場し、世界的な関心を集めたのだろうか。

アメリカでスピリチュアリズムなどの本を扱う出版社の経営者、マーティン・ロウ氏は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件がきっかけだと指摘する。

「『9・11』へのアメリカ人への恐怖は計り知れない。なぜアメリカは攻撃されなければならなかったのか。なぜこれほど恐怖しなければならないのか。(『ダ・ヴィンチ・コード』などが)その答を与えてくれるように思っているからでは」

イスラム教と衝突するキリスト教社会。この対立軸の中で改めて自分たちが信じるキリスト教信仰がどういうものなのか、問い直しているというわけだ。


†真実のイエス像排してきた歴史

ここまで明らかになってきたのは、過去の正統派のキリスト教会が、「神のひとり子イエス」を強調するために、聖書と異なるイエス像を排除したということだった。

確かに、キリスト教にとっては「処女懐胎」を押し通すことで、「イエスが罪なくして生まれた」という純潔性が強調されたり、「肉体の復活」を主張することで合理性を超えた宗教としての不滅性が強められた点では、意味があったといえよう。また、キリスト教が愛の実践などを通して世界宗教としての使命を果たしてきたのも事実である。

しかしその反面、イエスが仏教など他宗教から学んでいたことや転生輪廻などの霊的教えが聖書から取り除かれたり、イエスが真に信じた愛の神があいまいになったりした側面は否めない。

もし、こうした点が正しく受け継がれていれば、その後の異端派やイスラム教など他宗教との関係も、自ずと違ったものになっていただろう。


†大転換機を迎えた世界の諸宗教

「文明の衝突」が叫ばれる今日、多用な民族・宗教が平和裏に共存していくためには、互いに異教として排斥し合うのではなく、さまざまな違いを超えて、教義や価値観を統合していく新たなグローバルな教えが求められている。その意味で、世界の諸宗教は大きな転換期を迎えている。

2000年の歴史を経て真実のイエスの姿を追い求める『ダ・ヴィンチ・コード』などの動きは、キリスト教世界においても、宗教のあり方を問い直す始動が始まっているのでしないだろうか。

「The・Liberty」2005年1月号より 抜粋


イエス・キリストには弟がいた!!

カトリックの神学が崩壊!?
聖母マリアは永遠の処女ではない!?


聖書に記されたイエスの弟ヤコブの存在は、これまで常に論議の的になってきた。
彼は本当にイエスと血を分けた兄弟だったのか。
それとも、ただ単なる親族のひとりにすぎないのか。
2002年、その答えとなりうる新たな発見があった。
−−−それは「イエスの弟」と刻まれたヤコブの骨箱である!


†聖書の中のふたつの矛盾する記述

2002年の春、ある驚くべきニュースが全世界を駆け巡った。話題となったのは、石灰岩でできた重さ20キロほどの骨箱である。その側面に彫られた銘文が、世界に大きな衝撃をもたらしたのだ。

銘文はアラム語で、「ヤコブ、ヨセフの息子、イエスの弟」と彫られていた。イエスの弟であるヤコブの遺骨が、そこに納められていたという意味だ。

もしその骨箱が本物ならば、まさに前代未聞の大発見になる。なぜなら、『新約聖書』のイエスは、これまで物理的な存在として、考古学史上に登場したことがなかったからだ。

それはイエスやヤコブやヨセフが実在したことを証拠立てる、最古のものになるはずである。つまり、ヤコブの骨箱は聖書が語る史実や歴史上の人物の信憑性を、強力に裏づけることになるのだ。

だが同時に、銘文の内容は宗教界に重大な論争を巻き起こした。

もし、ヤコブがイエスの弟であることが立証されると、マリアは永遠の処女であるという教義に疑いを投げかけることになってしまう。つまり骨箱が本物ならば、ヤコブはイエスの従兄弟にすぎない≠ニするローマ・カトリック教会の解釈が、根底から覆されてしまうのだ。

実際に、骨箱が出現したとき、多くの人々は驚いた。「イエスに弟がいたなどありうるだろうか」「マリアは永遠の処女ではなかったのか」−−−と。

福音書の中では、確かにイエスの兄弟の記述が出てくる。たとえば、イエスがナザレに伝道にいった場面、故郷の人々がイエスをどう捉えていいのか困惑し、家族の一員として位置づけようとする。
「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、われわれと一緒に住んでいるのではないか」(「マタイによる福音書」第13章55〜56節)

だが同時に福音書は、イエスの誕生の話の中で、マリアの処女性について言及している。ヨセフは、婚約者のマリアが身ごもったとわかると、密かに婚約を解消しようするが、天使が夢の中に現れ、結婚するように告げられる。

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(「マタイによる福音書」第1章24〜25)


†イエス・キリストは神の子ではない!?

このため、後世に発展した世界の主な3つのキリスト教は、それぞれ次のような見解をもつようになった。

まず、ローマ・カトリック教会は、公式には、聖書に書かれている兄弟は、イエスの従兄弟だと教えている。「兄弟」という言葉は、包括的な「親族」という意味として捉えたもので、カトリックの伝承では、福音書に描かれているヤコブは、ヨセフの兄弟(または義兄弟)のクロバとその妻マリアの子だとしている。

一方、東方正教会では、イエスの兄弟たちは、ヨセフの最初の結婚でもうけた子供たち(連れ子)だと説いている。つまり、ヤコブはヨセフの前妻の息子であり、イエスとは血縁関係にはないのだ。

また、プロテスタントの一般的な見解では、確かにマリアはイエスを産んだときは処女だったが、その後は通常の結婚生活を送り、ヨセフとの間にイエスの弟や妹を産んだとしている。言い換えれば、イエスの処女懐妊は認めても、マリアの永遠の処女性は否定しているのである。

いずれにしても、それぞれ違いがあるものの、3つのキリスト教はどれも、イエスの父を「神」と見なしている。だが、骨箱の出現で、第4の可能性が出てきたのである。なぜなら、骨箱の銘文では、ヤコブはイエスの弟(兄弟)である、と断定しているからだ。

この「兄弟」=brotherという言葉(アラム語ではachui)は、本物の「兄弟」意外に、解釈のしようがないという。これに従うと、ヤコブとイエスは、神の介入なしに、父ヨセフと母マリアから産まれたということになる。

つまり、イエスとヤコブは血のつながった兄弟で、考古学的′ゥ地からすると、マリアの永遠の処女性は否定され、それどころかイエス誕生の奇跡すらなかった、ということになってしまうのだ。

イエスの時代、エルサレムでは、遺体を洞窟の墓所内の長く窪んだ穴に埋葬する風習があったという。約一年後、肉体が乾燥し、朽ち果てると、死者の骨はオシュアリーと呼ばれる石灰岩の蓋つきの箱に納められる。その箱は、一番長い大腿骨が納まる大きさで、外側に死者の名が刻み込まれて−−−はたして、ヤコブの遺骨はイエスの弟の存在を証明する本物≠フ骨箱なのだろうか。


†アラブの古物商から買った骨箱は贋作?

骨箱が発見されたのは、偶然ともいえる出来事がきっかけだった。

2002年の春、ソルボンヌ高等実務学校の歴史哲学科主任で、古代セム語の銘文研究の第一人者であるアンドレ・ルメールは、イスラエルに滞在中、イスラエルの著名な骨董収集家から、あるパーティの招待を受けた。

そのパーティの席上、彼はエルサレムの企業家で骨董収集家でもある、オデット・ゴランという人物に出会った。オデットは8歳のときに骨董品の収集を始めた人物で、現在は成功した企業の経営者であるという。

ふたりは初対面で意気投合し、オデットはルメールを自宅に招待した。そこでオデットは、いくつかの収集品を披露した後、一枚の骨箱の写真を取りだしたのである。

ルメールにとって、その骨箱の表面に彫られている銘文を判読するのはむずかしくなかった。すべての文字がしっかりと、丁寧に彫り込まれていたのだ。彼はすぐに、そこに秘められた重大な意味に気がついた。

ゴランによると、その骨箱は、何年も前、エルサレムの旧市街にある骨董市場で、アラブの古物商から購入したものであるという。古物商によれば、その骨箱はエルサレムのアラブ人の村、シルワンで見つかったものらしかった。その村の周囲は、古代の埋葬用の洞窟が存在し、数多くの骨箱が見つかっている地域である。

だが、それからの何年間も骨箱は、当時、ゴランが住んでいたアパートのバルコニーに置かれたままになり、その後は倉庫に収容されていた。ゴランは明らかに、その銘文がいかに重要であるかを理解していなかったのだ。

銘文の言語であるアラム語は、古代のセム語で、ヘブライ語に非常によく似通っているという。母国語がヘブライ語であるゴランにとって、銘文の基本的な意味を理解するのは決してむずかしいことではなかった。ではなぜ、彼は銘文の重要性に気付かなかったのか。

そう問われると、ゴランは両手を挙げて、こう答えたという。

「神の子に弟がいるなんて、考えたこともなかったんだよ!」

ヤコブの骨箱は、その後さっそく、ルメールの論文を通じて世の中に登場した。そして、トロントの王立オンタリオ美術館に展示され、大きな反響を呼んだ。

世界のマスコミも大きく取り上げ、「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」といった一流紙も第一面で取り上げた。

そうした騒ぎの中で、当然の事ながら、骨箱の信憑性が問題になった。贋作説が唱えられたのである。


†科学的な鑑定結果と統計的確率

贋作説の大きなポイントは、ヤコブの骨箱が、考古学的発見ではなく、骨董市を通して発見されたという事実だった。骨董市場では素性の知れないアラブ人の古物商から買ったものはなど、正確な由来もわからず、とうてい信用できないというのである。

しかし、ルメールをはじめとする骨箱の肯定論者たちは、それが世に出た経路は問題にならないと主張した。たとえば『死海文書』はどうか。『死海文書』こそ、最初はベドウィンの羊飼いが洞窟で偶然発見し、アラブの古物商を通して世に出たではないか、と。

ルメールたちは、骨箱が本物であることを証明するために、いくつかの科学的な検証を行った。

まず銘文の言語が、紀元1世紀(ヤコブが生きていた時代)のアラム語であるという確証を得るために、世界有数のアラム語の専門家に鑑定を依頼した。その結果、銘文は確かに1世紀のアラム語い゛あり、現代の贋作ではないことが明らかになった。

また、骨箱の年代を特定するために、エルサレムのイスラエル地質学調査研究所に分析を依頼した。その研究所によると、骨箱の成分は紀元1世紀から2世紀ごろ、エルサレムを中心に開拓された、低地の石灰岩と同じものであることが証明された。

つまり科学者たちは、骨箱の銘文は古代のものであり、本物であると結論づけたのだ。

むしろ問題は、銘文が本物だとしても、銘文で指名された(ヤコブ、ヨセフの息子、イエスの弟)3人が、『新約聖書』に登場する3人のことなのかを決定するほうにあった。というのも、この3つの名前はすべて、紀元1世紀のユダヤ人の間では、きわめて一般的であったからだ。

銘文に記された3人が、『新約聖書』に出てくる3人なのかどうかを判断するためには、統計学の助けを借り、紀元1世紀のユダヤ人の埋葬習慣を知る必要があった。

まず、名前が現れる確率の問題だが、あるイスラエルの学者が古文書学の記録に、これらの名前が現れる割合を計算したところ、ヤコブが銘文に現れる確率は2パーセント、ヨセフは14パーセント、イエスは9パーセントだったという。そしてこの3人が銘文とおりに並ぶ確率を計算すると、わずか1パーセントの40分の1という数字になった。(0.02×0.14×0.09=0.000252)。

この結果、当時のエルサレムの人口から想定すると、ヨセフという名前の父とイエスという名の兄弟がいるヤコブは、15人から20人いた、ということになった。

さらに、ユダヤ人の埋葬習慣である。遺骨を骨箱に集めるのはユダヤの習慣なので、想定した人数から、エルサレムに住む非ユダヤ人を差し引く必要がある。また、ヤコブの骨箱は大人用だったので、幼児や子供は除外される。加えて、骨箱に銘文を刻むことのできる読み書きのできる♂ニ族となると、さらに確率は少なくなる。

あるテルアビブ大学の教授は、こうした要素をすべて考慮した結果、必要な名前の条件を満たしていたのはわずか4名であり、さらに厳しく限定すると2名ほどになると結論づけた。

だがルメールたちは、やはり骨箱はイエスの弟であるヤコブのものであると確信している。なぜなら、当時、骨箱に父親の名前はともかく、兄弟の名を記すことは極めて希だったからだ。なぜ、銘文に兄弟の名前を記したのか。それは、その兄弟(イエス)が、いわば永遠の関係性を結びたいと願うような、卓越した人物だったからにほかならない。

骨箱はやはり、『新約聖書』に登場する3人の、最初で唯一の考古学的証拠なのだ。そして同時に、イエスが初めて考古学上の記録に出現したことを意味しているのだ。


†イエスの弟ヤコブ その人間性と生涯

そもそも、ヤコブとは何者だったのだろうか?

ヤコブは英語ではJamesだが、もともとの名はJacob。彼の祖父や、ユダヤのはるか昔の歴史上族長たちにちなんでつけられた名前である。ヤコブという名はイエスの兄弟、姉妹の間に列挙され、福音書ではいつもマリアと一緒に語られる。

ヤコブはナザレの敬虔なユダヤ一家のもとに育った。福音書でのヤコブは、ほかの兄弟たちと区別して語られることもなければ、イエスの死の前に業績があったと語られることもない。

だが、甦ったイエスがヤコブの前で現れたことで、ヤコブのその後の人生は激変した。ヤコブはその出来事がきっかけで、イエスの弟子になり、エルサレム教会の指導者になったのである。

聖書外典の「ヘブル人福音書」には、復活したイエスが弟のところに現れる話が詳しく語られている。それによると、ヤコブは甦ったイエスが自分の前に現れるまで、パンを食べないと誓いを立てていた。そこにイエスが現れた。

「イエスはパンを手に取り、感謝を捧げるとパンをちぎり、それを義の人、ヤコブに与えた。弟よ、あなたのパンを食べなさい。なぜなら人の子が死者の間から甦ったのだから」

この史料からは、ヤコブの特性がいくつか浮かび上がる。ヤコブは敬虔で義のある重厚な人格者として慕われていた。

また、禁欲主義者としても知られていた。禁欲主義とは、生活を浄めるために食べ物や酒を慎むことであり、ときには性的行為や他人との接触を断つことだった。ヤコブが「義の人」と呼ばれるようになった由来はそこにある。

ヤコブはエルサレムで、イエスの磔刑の後、12使徒の離散の後に現れた、新興のキリスト教共同体で、最も重要な指導者のひとりとなった。そこで、エルサレムの名高い使徒会議の議長を務めたとされている。その会議で、エルサレムのユダヤ人キリスト教共同体と、ギリシアの異邦人への伝道ををしていた人々との対立を、うまく修復したという。

ヤコブは聖地エルサレムで長く活動した。時間をかけてイエスを核とする共同体を作った。ヤコブにまつわる伝説的な話は、初期キリスト教の文献に広く見られる。それはキリスト教の成立において、兄イエスの後継者として、その基盤を作ったヤコブの重要性を裏づけるものにほかにらない。

しかし『新約聖書』には、ヤコブの死や埋葬についての記述はない。後世のキリスト教の記述によると、ヤコブは対立するサドカイ派のユダヤ人司祭によって殺された。神殿の尖塔から突き落とされ、その後、石で打たれたという。

伝承によると、殺されたヤコブは、神殿のそば、神殿の丘の南に埋葬された。そこは古代のユダヤ人たちの埋葬場所であるシルワン谷の地域であり、まさに骨箱が発見されたという場所なのだ。

ヤコブははたして、イエスと血の繋がった兄弟だったのだろうか。それによって、キリスト教の歴史は、その根本から書き換えられてしまうのだろうか。イエスの研究の第一人者であるベン・ウィザリントンは次のように語っている。

「たとえ、歴史的事実がマリアの永遠の処女性という教義に不利だとしても、その教義がどれほど重要なのだろう。永遠の処女性はカトリックの信仰箇条であるが、教皇の浮華謬性に基づいて真とされた教義ではないはずだ。この教義も、カトリックの伝承で犯すべからず、と決定されているほかの多くの信条や儀式と同様に、再検証はできないのだろうか」

現在も銘文の真偽を巡って、熱い論争が続いているという。興味がある方は『イエスの弟』(ハーシェル・シャンクス/ベン・ウィザリントン共著 松柏社刊)をお読み頂きたい。ベン・ウィザリントンは、「真実を知っているのは神のみだ」と語っている。あるいはそれが、数々の疑問に対する唯一の答えなのかもしれない。

「ムー」2004年 12月号より


外典が伝えるイエス自身の告白


†驚くべきイエスの告白!

さて、一度視点を変えよう。これまで見てきたイエス磔刑の謎を知る上で、もっとも信頼がおけるのはイエス自身の告白ではないだろうか。

そのような文書が存在しないか確認したところ、100%確率ではないものの、ほぼ間違いないだろうという証言に二カ所出合った。

それはグノーシス文書の中の「ペトロ黙示録」と「大いなるセツの第二の教え」である。

まずペテロ黙示録のなかでイエスがペトロにこう語りかけている一節がある。

「・・・私は彼が彼らによって捕らえられたのをはっきりと見た。『ああ、主よ、私は何を見ているのでしょうか。彼らが捕らえたのは、本当にあなたなのでしょうか。そしてあなたは、私をお見捨てになっておられないのでしょうか。そして彼らは、別の人の手足に釘を打っているのでしょうか。十字架の上で、喜び、笑っているあの人は、いったい誰なのでしょう』。救い主は私に言った。『あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつづけているその人は、生けるイエスの肉体的部分であり、それは身代わりである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。だから、彼を見なさい。そして私を「見なさい」』」

さらにイエス自身が磔刑の真相を告白している文章がある。先にも述べた『大いなるセツの第二の教え』がそれだ。このなかでイエスは語っている。

「・・・胆汁とすっぱいぶどう酒を飲んだのは・・・・他の者であり、それは私ではなかった。彼らは葦の棒で叩いたが、肩で十字架を担ったのは、他の者、シモンであった。彼らがいばらの冠をかぶせたのは、他の者であった。しかし、私は彼らの取り違えを・・・高見で楽しんでいた。・・・・そして、私は彼らの無知を笑っていたのである」

イエスの言葉によれば、十字架を担いだシモンをはじめ磔刑までの役割を別の人物が担当していたというのである。

どうやら壮大な「神芝居」の真相が見えてきたようだ。テレビや写真のないあの時代だからこそ使えるトリックが、仕掛けられていたのかもしれない。

「ダ・ヴィンチの暗号を解読する」 中見利男 著 日本文芸社


矛盾に満ちた4つの福音書

記述が一致しないイエスの誕生と復活

「聖書の決定版というものは、歴史上一度も存在していない」

小説「ダ・ヴィンチ・コード』の登場人物ティービングの、言葉だ。

そもそも新約聖書の編纂にあたっては、80を超える福音書が検討され、その結果、正典として採用されたのは、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の4つの福音書だけであった。

しかし、その4つの福音書の.記述は致命的な点で一致していない。

たとえばイエスが誕生したときに東方の三博士が来訪したというマタイに対し、羊飼いの牧童が祝福に来たというルカ。さらにイエス誕生のシーンさえないマルコ、ヨハネ。

また少年時代のイエスも詳しく記されていないほか、最大のハイライトであるべきイエス復活後のシーンもヨハネをのぞいて、いずれも淡泊きわまりない。まるでイエスの復活は重要ではないかのようだ。

しかもマルコによる福音書では、イエスには「マリアの息子」としてヤコブ、ヨセブ、シモン、ユダらの兄弟がいたという。だが、これでは神の子はイエスも含めて5人もいたことになり、マリアの処女懐胎とつじつまが合わなくなるのだが、これに対するエクスキューズは4つの福音書にはないのである。

ちなみに異端視された外典の一つには、彼らはヨセフの先妻の子供たちだという説明がある。

ローマ全盛の世に編纂

では、その新約聖書の正典である4つの福・首書が成立した歴史的背景とは、いかなるものであったのか。

まず福音書が書かれた時期は次の2つに大別されている。それは、@紀元66年から74年、A132年から135年のユダヤの二大反乱のときである。

@の期間の文書のなかには、イエスと同時期に生きていた入や、イエスと会話をした人もいたといわれ、マルコによる福音書がそれにあたる。同書は反乱の起こった66年から73年、あるいはその少しあとに書かれたものと考えられている。ちなみにマルコ自身は、イエスのもとの弟子ではない。彼は聖パウロの弟子とされ、その記述のなかにパウロ的な考え方が見受けられる。

マルコによる福音書はローマで編集され、グレコ・ローマン(ギリシア・ローマ)の読者を対象にしていると考えられている。マルコによる福音書が書かれた当時、何千人ものユダヤ人がローマ政権に逆らった罪で十字架刑に処せられていた.そのため、マルコは自分が書いた福音書をローマ人に受け入れさせるため、イエスの言葉から反ローマ的なものを削除したといわれる。

また、自分の文章をさらに後世に残すため、マルコはイエスの死の罪をローマ人ではなく、ユダヤ人にかぶせたともいわれている。

このシステムは、ほかの福音書の.記者と初期キリスト教会にも取り入れられたという。なぜなら、こうした策略を採らなければローマ全盛の世の中で福音書も教会も生き残れなかったからである。

一方、ルカによる福音書は、80年ごろに書かれたとされている。ルカはギリシアの医者で、彼の福音書はローマ総督府が置かれたカエザリアに住むローマ帝国の高級官僚に向けて書かれたものとされている。

したがってルカも、イエスの死の罪をローマ人ではなくユダヤ人に転化する必要があった。

さらにマタイによる福音書が書かれた85年ごろには、この小説的手法がいつしかノンフィクション、つまり真実として受け止められるようになったのである。同書は、もともとギリシア語で書かれたため、ギリシア的な特微をもつが、その内容の半.分以Eはマルコによる福音書からそのまま取り込まれたものとみられている。

最も信頼できるのはヨハネによる福音書か

ところがヨハネによる福音書の記者についてはなにもわかっていない。実際、記者の名前をヨハネとする根拠もなく、バプテスマ(洗礼者)のヨハネを除けば、この福音書にはヨハネという名の人物は出てこないのである。

したがってヨハネという人物が書いたのは後世の伝説とするのが定説である。

さて、同書は新約聖書のなかで、もっとも新しく、100年ごろにギリシア人の都市エフェソス近郊で書かれたものらしい。

このヨハネによる福音書には先に述べた3つの福音書(共観福音書)とは明らかに異なる特徴が見られる。それはーつひとつのエピソードに関する記述の精度が極めて高いというものだ。そのため聖書研究家のあいだでは、最後に書かれたヨハネによる福音書が4つの福音書のなかでもっとも信頼できるものであり、歴.史的にも正確であると考えられている。

またヨハネによる福音書の記者は、66年の反乱以前のエルサレムの地形を実際によく知っていたのではないかと指摘されており、「同書の背後には、ほかの福音書にはない古代の伝統が横たわっている」と結論づける研究者もいる。つまり欧米ではヨハネによる福音書は、初期の真正なイエスの口伝を知っていた人物が書いたのではないかと見られているのだ。

★キリスト教はなぜローマ国教となったのか?

政治に利用された初期キリスト教

当時ユダヤを属州としていたローマやロ!マ人に対する非難、そして日常生活における重圧に関する記述が新約聖書の4つの福音書にないのは驚くべきことである。

実際、福音書からは現状に満足して穏やかに暮らしているユダヤ人の前に突然、イエスが騒乱の火種を持ち込んだかのように読み取れる.しかしこれには理山がある。

初期キリスト教の・下な「マーケット」は、ローマ人やローマ人化した人々であった.、そこで伝道者たちは、イエスの死は権力者であるローマ人ではなく、属州で弱い涙場にあったユダヤ人にこそ罪があった、との考え方を採用せざるをえなかったのである。

しかも、イエスの教えをパレスチナからシリア、小アジア、ギリシア、エジプト、ローマ、そして西ヨーロッパへと普及させるためには、キリスト教が取って代わろうとする既存の神々の力や、偉大さ、奇跡のレパートリーを同じように持っていなければならなかったのである。

それをのちに信徒になったパウロが、むしろ政治的配慮としてイエスの神格化を猛烈に仕掛けたのだという。

つまり異邦人への布教と、ローマ帝国という国家が宗教に介人してきたことで、初期キリスト教はいつのまにか「ローマ版キリスト教」になってしまったのである。ではキリスト教の政治化を推し進めたのは一体誰だったのか。

太陽皇帝・コンスタンティヌスの啓示

キリスト教をローマ帝国の国教としたのは「太陽聖帝」と呼ばれた皇帝コンスタンティヌスである。

紀元312年、ローマ近郊で王位を脅かすマクセンティウスと西ローマ帝国の覇権を賭けて戦っていたコンスタンティヌスは、ある幻覚を見ることになる。

それは光り輝く十字架が空からぶらさがっており、そこには「イン・ホック・シグノ・ヴァンケス(この記章により勝利すること書かれていたという。

この幻覚を天からの啓示だと直感したコンスタンティヌス帝は、自分の軍隊の楯にギリシア語で「キリスト」(救世主)を表わす文字を彫りこませ、戦いに臨んだというが、当時、コンスタンティヌス帝の軍隊と一緒にいた人物の伝えるところでは、この幻視とはイエスのものではなく異教の太陽神「ソル・インヴでクタス」〔以下ソル信仰)であったというのだ。

実際、彼は先にも述べたように、「太陽皇帝」と呼ばれ、国旗から領土内の貨幣にいたるまでありとあらゆるとこうにソル信仰のシンボルが使用されていたという。

もともとソル信仰はシリアを聖地とする太陽崇拝で、本質約には一神教だが、ローマでは異教とも融合していたようだ。

国教化の裏で行なわれた異教徒との融合

さてソル信仰は当時のローマや帝国内で勢力を伸ばしていた同じ太陽神を崇拝するミトラ教とも融合したというカコンスタンティヌス帝は、その大神官であった。そのためキリスト教も、ソル信仰のトップである皇帝の庇護のもとにその地位を固めていくことになる。

前述のとおり、イエスの十字架刑から3世紀あまりを過ぎて、ローマ帝国にはキリスト教信者がすさまじい勢いで増えたため、異教徒とのあいだで争いが絶えないばかりか、あまりの激しさのため、帝国が東西に分裂しかねない状況にあった。

そこで皇帝が考え出した策がキリスト教を国教として公認し、帝国の安定に寄与させるというものであった。そのためにコンスタンティヌス帝は、キリスト教にも、ソル信仰、ミトラ教などの、太陽崇拝を取り人れたのである..

そして次の段階として今度は、混乱するキリスト教諸派の葛藤や争いをなくすためにキリスト教の教義の統一に乗り出した。これが有名な325年のニケーア公会議である。

ニケーア公会議で決定されたイエス=神

325年6月19日に始まった公会議は2ヵ月間にわたって開かれ、250名から320名の司教たちが列席するなか、さまざまな報告が申し述べられた。この公会議では復活祭の日付や司教の権威についての規則が定められ、これによって教会に対する権力集中の道が開かれた.、だがこのニケーア公会議におけるもっとも重要な決定事項は、イエスは人問ではなく「神が受肉した存在」だと投票によって定められたことである。

特にイエスの神性を否定するアリウス主義派との議論は伯仲し、その結果、司教たちはようやくニケーア綱領と呼ばれる考えを確認することができたといわれている。それは「キリスト教徒は、父なる神、その子なる神、聖霊なる神を信じるべし」というものであった。

このとき皇帝は公会議の招集にあらゆる便宜を図っており、司教たちは皇帝の交通システムを使うことを許され、旅費は無料、しかもローマ軍の護衛までついたという。

そしてこのニケーア公会議ののち.、コンスタンティヌス帝は教会に正典の編纂を委託し、その結果、397年の第3同カルタゴ会議により定まったのが、今日伝えられる新約聖書の正典というわけだ。

つまり今口の、正統と異端という2つのキリスト教社会の流れが誕生したのは、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝が主催したニケーア公会議によるものなのだ。

「ダ・ヴィンチの暗号を解読する」 中見利男 著 日本文芸社